ご飯を奢ってくれる人って本当にありがたいんですよね。
金はあまりない。でも誰かと話すのは大好きなので、外食には行きたい。
そういう人種なので、年上のお金持ってる方に奢ってもらえるのが本当に嬉しいのです。
で、そんな環境の中で、こんな疑問が湧いてきました。
遠慮するくだり、要るかな?
要らないんじゃないか、という結論に到達したので、今日はそれについて書いてみます。
遠慮するくだり
大抵、奢ってもらう時はこういうやりとりをするんじゃないでしょうか。
普通の人は、偉い人の「僕が出すよ」に対しては、一回遠慮を挟みますよね。
場合によっては二回三回と遠慮を挟むと思います。
これ、僕はもうやめます。
やめる理由① 意味のないやり取りだから
仮にさっきのやりとりで
っていう展開になる可能性があるとしたら、僕の「自分で出します」宣言に意味はあったでしょう。
が、ならないんですよね。
基本的に偉い人も織り込み済みのやりとりだから、「出します!」って言ったところで意味がないのです。
極論、このやりとりは時間のムダです。
やめる理由②「自分で払いますよ!」は、嘘だから
多分ほとんどの人が、最初に「今日は僕が出すよ」と偉い人が言った時点で、「やった!奢ってもらえる!」と考えるはずです。その上で、世間体で「いやいや!払いますよ!」と言ってる訳です。
「やった!奢ってもらえる!」と思っているのに「いやいや!払いますよ!」っていうのは不誠実な感じがします。その遠慮は嘘ですからね。
つまらない嘘の時間より、心からの感謝の時間を作ろう。
地球上のつまらない嘘が1つ消えて、感謝が増えるなら、僕はそれが正義だと考えます。
やめる理由③ 遠慮するより、感謝する世の中が好きだ
最大の理由はこれです。
遠慮したり気を使って、本当の気持が言えないのが僕はとても嫌です。
「迷惑になるんじゃないか…?」みたいなことを考えて本音が言えずに失敗する組織・人を僕はたくさん見てきました。
今の世の中、日本人は過度に遠慮してるんじゃないかな、と思います。
だから僕は、図々しいけど礼儀正しい人間になりたいです。遠慮はしないけど、相手への敬意は全力で表現する人間になりたいです。
今後は遠慮を言うのではなく、こうします。
こっちの方が良くないですか?
前述のとおり僕は奢ってもらえるのが心から嬉しいから、その分お礼を言うことに時間を割きたいのです。
誰にでも「死ぬ気で恩返しする」とか言いやがって!何だあいつ!って思われる節もありますが、僕は適当なおべっかを言ってる訳じゃないです。
ご飯奢ってもらったり、時間を使ってもらったり、何かを提供してもらったことを僕は忘れません。遠慮をやめれば、それを表現する時間が増える。
やめる理由④ 遠慮しない奢られ方は豊かだから
これ言うと色んな人に怒られそうなんですけど、お金なんて持ってる人が出せば良いんじゃないかと思ってます。
僕は大道芸人の仕組みが好きなんですよ。彼の芸は路上で行われるから皆が見る。でも、お金を払うのはお金持ちで、貧乏人は満足したら立ち去る。
でも別に誰も怒り出さないですよね。これって豊かだな、と思うのです。
持ってない人が無理して出さなくても、皆が幸せを受け取れる。
すなわち、持たざるものが幸せになれる、という「資本主義っぽくない豊かさ」があります。これがすごく良い。
「ご飯を奢る」っていうことも元々はこの資本主義っぽくない豊かさを感じます。
それがなぜか「先輩なら後輩に奢るもんだ!」とか、「デートの会計は男が持つべき!」みたいな義務がくっついてしまうから、何となくしんどい感じになるのです。
で、「俺のほうが先輩だからこいつに奢ってやろう」みたいな理屈が働くから、後輩も申し訳なくなって「いやいやいや!」って遠慮します。こっちはむしろ「資本主義の貧しさ」を感じます。
大道芸人にお金を払ってる金持ちを見て、貧乏人が「いやいやいや!」って言うことはありませんよね。とっても豊か!
僕は、資本主義っぽくない豊かさを享受したいです。自然にお金を出してくれる方には、つまらない遠慮はしたくない。大道芸を見る貧乏人で居たいと思います。
まとめ
ということで、僕は今後は遠慮のくだりをやめます。
また、全体として何となく「奢って下さい!」みたいな論調になってしまいましたが、最後に書いた通り「貧しい奢られ方」はしたくないです。
だから僕はいつでも自分でお金を出すつもりでいます。もしお金を出してくれる方がいるのであれば、遠慮しない、それだけです。
最近はネットを通してご飯の誘いを頂くことも多くなりましたが、7割くらいは自費で行っています。
決して「奢りじゃないと呼んじゃいけない奴」だと思わないようにお願いします。僕は呼ばれたらどんな飲み会にも自費で参ります。色んな人に会えるの楽しい!