──CMは、偏差値40の人に理解できなければならない
以前、はあちゅうさんがそんなツイートをして、炎上していた。
電通の先輩が、
「CMは偏差値40の人にも理解できるものじゃなきゃダメ。この会社にいる時点で普通ではないと自覚しろ。世間にはおそるべき量のおそるべきバカがいる。そしてそれが日本の『普通の人』だ」
って言ってたの、一番役に立ってる教えの一つだ。
— はあちゅう (@ha_chu) January 30, 2017
僕はこのツイートと完全に同意見であり、はあちゅうさんのこのツイートは大いに賛同できる。
言葉選びがアレなので炎上する理由はまあ理解できるけど、内容としては実に正鵠を射ていると思う。
そして、かつての僕はこの「偏差値40の人に理解できるようにしないといけない」という感覚に縛られて、キツい思いをしていた。
最近はそこから自由になり、文章書いたり企画を作ったりするのが楽しくなったので、今日はそのことについて書いてみようと思う。
バカを切り捨てるということ
早速だが最近の僕は、バカに届ける必要などないというスタンスで発信活動をしている。
分かる人間に分かればいい。僕のプロダクトを届けたい対象はある程度賢い人であり、それ以外の人への配慮は最低限で十分だ。
はあちゅうさんの言い方に寄せるのなら、僕のコンテンツはCMと違い、偏差値60以上の人間にだけ届けばよく、それ以外の人に届ける必要はない。という感じになる。
少しでも多くの人に届けたいCMは大変だけど、インターネットコンテンツの作り手は気楽だ。たった1万人に届ければ十分にヒットしたコンテンツだという扱いを受けるし、原価がかからないから採算も取れる。
「偏差値40の人に届けないと」と消耗した過去
だが、昔の僕は結構悩んでいた。
そんなことを考えて、見せ方を工夫したり、ディティールにこだわったりしていた。
特に、ブロガー界隈のノウハウを気にしたりしていたから、あの時期は大変だった。
- 人は文章をちゃんと読めない
- だから、見出しや画像だけをサッと流し見して内容が分かるようにする
- 一文が長いと心が折れて離脱するから、短い文を書く
- 「だ・である調」は難しく感じられるから、「です・ます調」で書く
といったノウハウがあった。今になって思えばバカバカしいにもほどがある。
こんなものを中途半端に気にしながら書いていたら、全然のびのび書けないじゃないか。
だが、上記のようなノウハウはそこら中にあふれており、「読者はバカだ。バカに分かるように書かなければ」という考えは僕の中に確実にすりこまれていた。
そう、今はどうなのか知らないが、僕が片足を突っ込んでいた2016年当時のブロガー界隈は、こんなくだらない表面的なテクニックの話が跳梁跋扈しており、「良いものを書け」という本質を捉えた話は少なかった。
今考えてみれば、それもしかたないことなのだろう。「良いものを書け」は空っぽの人間には実現不可能な助言だから。
当時は【ブログで稼ごう!】みたいな言説がはやりはじめており、オンラインサロンが乱立し始めていた時期だ。オンラインサロンに人を集めたい運営者たちは「誰でもできる!(=中身が空っぽのあなたでもできる)」を売りにしていた。
中身が空っぽの人間には、良いものは書けない。良いものを書くには、人生経験の蓄積や、それを咀嚼して表現に落とし込む知性が必要だからだ。
空っぽの人間を呼び込みたいオンラインサロンの集客と「良いものを書け」という本質的なアドバイスは相性が悪い。
そんな背景があって、「バカに分かるように書く」ノウハウは乱立していたのだろう。
表面的なテクニックが飛び交い、「バカに分かるように書く」ノウハウの海におぼれていた僕は、バカに分かるように書こうと頑張った。良いものを書く努力よりも、バカに分かるようにする努力をしていた。
ヒットするコンテンツを作るためには、それしかないと思い込んでいた。これは今考えると本当にもったいなかった。
そして、往々にしてこの「バカに分かるようにする努力」は徒労に終わる。工夫をしても結局、テーマが難しいとバカにはウケないからだ。
しかも、「バカに分かるように」と言葉選びを変えることによって、コンテンツの純度が下がり、”コンテンツの良さ”が減っていく。ああ、なんて悲しい状況なんだろう。
「バカに分かるように」信仰の終わり
そんな僕の「バカに分かるように書く」信仰が終わったのは、本当に良いものを、本当に良い形で書いていて、評価も得ている人たちを目にするようになったからだ。
借金玉さんの「起業失敗の話。起業を志す皆さんに敗残者からお伝えしたいこと」あるいは、えらいてんちょうの「宗教団体を立ち上げて5年で崩壊した話」は、いずれも本当に素晴らしい名文だ。彼らはいつも圧倒的に優れた文章を書く。
そして、文章が読めないバカなどは最初から相手にしていない。
だが、彼らは大いに評価されている。偏差値60以上の、価値が分かる人が全員彼らをべた褒めするからだ。
それだけでいいのだ。大衆に届けなければならないコカ・コーラのCMと違って、インターネットコンテンツは、ちゃんと刺さる人にだけ刺さればいい。
偏差値60、いや、70以上の人に限ったとしても、日本に何十万人といるワケだ。1万人にしっかり届ければ十分すぎるインターネットコンテンツの世界で、この絞り込みは何も問題ない。
余談だが、親しい友人に言われたことがある。
僕は褒められること自体は大好きなのだけれど、この時は全然嬉しくなかった。というよりも、虚しさすら覚えた。僕の文章よりも借金玉さんの文章のほうが「良い」ことは明らかだったから。自己評価とかけ離れた褒め言葉は虚しさを生む。
彼女は、借金玉さんの文章の「良さ」を理解できていない。切り捨てられた側の人間だった。
こういう大多数の人を切り捨てた上に、彼らの名文はある。それで問題ないのだ。
ちなみに、「彼女が借金玉さんの文章を評価しないのは、好き嫌いの問題なのでは?」という反論がありそうなのでそれについても言及しておく。
僕は、コンテンツを評価するにあたって「好き嫌いの問題だ」と逃げるのが嫌いだし、正しくない姿勢であると思っている。
世の中には明確に「良いコンテンツ」と「悪いコンテンツ」が存在する。好き嫌いというのはそこにかかるプラスマイナス10点の補正にすぎない。90点のコンテンツが好き嫌いによって100点になることもあれば、80点になることもある。そういう話にすぎない。
コンテンツ自体が90点なのか、20点なのかという「コンテンツ自体の評価」は存在する。
今回の例で言うなら、本来100点のコンテンツである借金玉さんの文章を、彼女のアンテナは正常に評価できず、40点と評価してしまった、ということだと思う。
受け手は選んでいい。”良いもの”を作ろう
ここまでをまとめよう。
受け手は選んでいい。偏差値60以上の人に伝わればいい内容なら、「バカにも分かるように」という視点は、要らない。
バカに分かるようにする努力は、要らない。
ちゃんと”良いもの”を作って届けることに注力しよう。その方が結果として、偏差値60以上の人たちから高い評価を得て、しっかりヒットするコンテンツになる。
「伝える努力」は怠ってはならない
最後に、「独りよがりのコンテンツを作ってよい」ワケではないことを述べておきたい。
自分の信じる面白さを、他の誰かに伝える努力は行わなければならない。
偏差値60以上の人に届けばよいのならば、偏差値60以上の人にしっかり伝える努力をしよう。
だが、この「伝える努力」は、「バカに分かるようにする努力」よりも圧倒的に意味のある作業だ。やればやるほど成果につながるし、この作業によってコンテンツの”良さ”もどんどん大きくなっていく。
「バカに分かるようにする努力」という徒労から、自由になろう。
本質的に意味のある、「伝える努力」をしよう。それによってあなたのコンテンツは、”良いもの”になっていく。
まとめ
- 「バカに分かるようにする努力」はやめよう。徒労だ。
- バカに分かるようにする努力はやめて、良いものを作る努力をしよう
- 伝える努力を怠ってはならない。バカを切り捨てていいだけだ。対象者にはしっかり伝えよう
以上、最近感じているコンテンツ論でした。
ネットにあふれているしょうもないコンテンツが駆逐されて、”良いもの”が増えることを心から願っています。
誰よりも、インターネットコンテンツを愛するものとして。
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