「う~ん、どっちかなぁ……」
裸のオジサンが、ウエディングドレスを注視している。
これは新しい変態の形ではない。一人の男が戦いを続けた結果、たどり着いた場所なのだ。
始まりは「ごみ分別クソ食らえ人間」
よく晴れた秋の日。僕の家に、一人の芸人が訪れた。
彼。マシンガンズ滝沢さんである。
僕は小学生の頃、「エンタの神様」などのネタ番組に彼らが出ているのをよく見ていた。腹が立つものに対して2人で怒りまくるといった芸風で人気を博していた。
あれから、10年以上の時が流れた。彼は今、全く違う形で人気を博している。
『ゴミ清掃員の日常』がまた重版になりました。こんなに早いペースで増刷になるなんて、本当にみなさんありがとうございます! pic.twitter.com/qAWLZ9qm1i
— マシンガンズ滝沢 (@takizawa0914) October 14, 2019
それは、「ゴミ清掃員」である。芸人とゴミ清掃員を兼業する彼は、その独自の経験を語ることに定評がある。
ゴミ清掃員としての日常を書いたコミックエッセイ「ゴミ清掃員の日常」はTwitterでも話題となり、版を重ねている真っ最中だ。
そんな彼が、なぜ僕の家を訪れているのか?
話は数ヶ月前に遡る。僕のTwitterアカウントに、1件のリプライが来た。
はじめまして。マシンガンズの滝沢と申します。堀元さんのファンです。僕は今『ごみ分別芸人VSごみ分別クソ食らえ人間』というライブをやりたいと思っております。失礼なければDMを送りたいのですが、よろしいでしょうか?
— マシンガンズ滝沢 (@takizawa0914) June 7, 2019
面識も全くないのに突然、『ごみ分別芸人VSごみ分別クソ食らえ人間』という謎のライブの相談であった。
「ごみ分別クソ食らえ人間」という文字列、初めて見た。「ごみ分別芸人」という文字列も相当よく分からないのに、その対義語を生み出さないで欲しい。
一生見ずに終えるはずだった文字列を見た驚きに面食らい、勢いで快諾してしまった。
「ゴミ清掃員」としての経験がウケている芸人のマシンガンズ滝沢さん(@takizawa0914 )とこないだ食事兼打ち合わせをしました。著書も頂いた。
「ゴミ分別芸人VSゴミ分別クソくらえ人間」みたいなイベントを一緒にやることになりました。多分8月末くらいに多分ロフトプラスワン(曖昧)。 pic.twitter.com/aYPVXOLV86
— 堀元 見@企画屋 (@kenhori2) June 24, 2019
しかし、このイベントは白紙に戻る。ステークホルダーである出版社にダメだと言われたらしい。
そりゃそうだろ。「ごみ分別クソくらえ人間」で出版社がOK出すワケがない。
それでも彼は僕とコラボがしたかったらしい。代わりに「変な企画記事を書いて著書の宣伝をして欲しい」と言われた。OK、僕の得意分野だ。彼の「分別」能力を活かした企画をやろう。
ゴミっぽい現代アート?それとも現代アートっぽいゴミ?
広告記事の依頼を受けてから2ヶ月、準備が整った僕は自宅に滝沢さんを呼び出した。
何も聞かずにノコノコやってきた彼に、企画の説明を始める。
これを聞くと、滝沢さんは意外そうな顔をした。
現れた仮面の男に、場がざわつく。僕は「記事のコンセプトが散らかるから余計なことしないで欲しいなぁ」と思っていた。
とにかく、とりあえず着席して話を前に進めようとするが、やはり仮面についての質問が飛び出す。
名前:冨田悠暉(Twitter:@toidora)
名古屋大学在学中。名古屋大学作曲同好会主宰。
高校時代から作曲を始め、作曲による受賞歴多数。
大学入学後に現代アートの制作を始め、インターネットを中心に精力的に現代アート作品を発信している。
そう語る彼の声に、揺らぎはなかった。自信満々だ。
確かに、彼の言う通りかもしれない。彼は幾度となくステージに立ち、幾千人の客を笑わせてきた。書き上げた本は版を重ね、多くの人に愛されている。
彼ならばいとも容易に、全問正解してしまうかもしれない。もしかしたら、この企画は企画倒れに終わってしまうだろうか。
そんな不安がよぎりながら、クイズは始まる。
全11問のクイズだ。あなたもぜひ一緒に、「これは現代アートか?それともゴミか?」を考えながら読んで欲しい。あなたは、滝沢さんより多く正解できるだろうか。
電光石火の1問目
回答を叫ぶ彼のハスキーボイスが、閑静な住宅街にこだまする。ステージの上で鍛え上げられた声量。
一切悩まない、さすがの思い切りである。彼の自信は本物だ。セコセコと裏を読んだり、悩んだりしない。
芸人を20年続ける内に磨き上げられた彼の感性は、きっと最高潮に達している。アートかゴミを見分けるなんて、彼にとっては簡単すぎる。
「現代アートです」
「えっっっ!!!!!!!」
「えっ…???」
滝沢さんは信じられない表情を浮かべている。
圧倒的に自信満々だった人が、すごい勢いで間違えてしまう。昭和のコントみたいな流れがキレイすぎて、僕は進行役にあるまじき爆笑をしてしまった。今どき見ないタイプのコテコテの笑いだ。
恐る恐る話を振ってみると、仮面の男は少しだけこちらを向いた。
シュルッ…
シュルル……
スッ、カチャッ
「これはですね、元々……」
「喋った!!!!!!」
「アートは、多数決から最も遠いところにあるんです」
分別されるネクタイ
復活できないように切断して…
ゴミ袋に入れる。
それでも彼は、即答を続ける
続いて、2問目を出題した。
「ゴミです。」
「いよっし!!!」
3問目は今までよりゴチャゴチャした印象だが、彼の反応は……。
彼は今日初めて身を乗り出して、写真を見た。僕は「お、やっとマジメに考える気が出たか」と思ったのだが……
「っしゃあ!!!」
初めての迷い。そして、人生の悲しみに思いを馳せる
受け取った滝沢さんは、ものすごく近い距離で観察していた。チンパンジーに道具を与える実験を彷彿とさせる。
ここに来て、初めての「現代アート」回答。
彼の判断の根拠は「ゴミっぽくないから」。現代アートを見分けるというよりも、「ゴミかゴミじゃないかを見分ける」というスタンスを貫いている。
ゴミ清掃員として研ぎ澄まされた己の嗅覚を信じた彼の決断は、正しいのか。
「よっし!!!!!」
ところで、この人は喜びのパターンが少ない。記事を書いている現在、僕は「同じような写真ばっかりで単調になるなぁ」と困っている。
彼の写真、「悲しみ」は結構色々なパターンがあるのに、「喜び」のパターンは少ない。きっと、喜びよりも悲しみの多い人生を送ってきたのだろう。
乾いたガッツポーズの写真を見ながら、彼の人生の悲しみに思いを馳せてしまう。企画記事執筆中に”哀愁”を感じたのは初めてだった。涙が邪魔で執筆が進まない。
解説はとんでもなく長かったので、要約を掲載しておく。ちゃんと全部聞いて要約した僕を褒めて欲しい。
【解説の要約】
あいちトリエンナーレで行われた「表現の不自由展」中止の際、展示を隠すために壁が立てられた。
その壁と全く同じデザイン・寸法の模型を3Dプリンタで出力し、燃やしたり鎮火したりを繰り返した。
壁という、”展示とは全く関係ないもの”を燃やす対象にすることで、表現の不自由展をめぐる”行き場のない議論”を加熱させることの虚しさを描き出した。
作成過程の動画がこちら。
5問目:そして始まる、アートの迷宮
ただ捨ててあるだけの空きビン。最初ならば間違いなく「ゴミだ」と切り捨てたであろう写真。
だが、ここまでの4問で彼に埋め込まれた現代アートの種は、確実に萌芽の時を迎えていた。
驚きのビフォーアフターである。人はたった4問クイズを解くだけで、たった10分の解説を聞くだけで、すごい深読みを始めるようになる。
昨今、日本の芸術教育の遅れが叫ばれることが増えたが、全員このクイズをやったらいいと思う。
つい深読みしてしまう自分を振り払い、「これはゴミだ」と回答。この判断は吉と出るか凶と出るか……。
「くっっっっっっそ!!!!!」
【解説の要約】
作品タイトル:凝縮された神性
「よく見る酒の空きビン」も「灰色の屋根の上」も、ごくありふれた日常的なものである。だが、両者が重なることで非日常性が発生し、目を引く。「なぜあんなところにあるのだろう?」と考えさせるものになっている。
すなわち、「日常性の特異点」が発生している。ここに作者は神性を感じ取った。
更に、後日同じ場所を確認してみると、ビンは消え、同じ場所に仏像が出現していた。
なぜそうなったかは全く分からない。同じように神性を感じ取った者が仏像を置いたのかもしれないし、ビンが神性を帯びた結果、仏像になったのかもしれない。
いずれにせよ、これは宗教の誕生である。複数人が同じものに神性を見い出せばそれは宗教だし、作者が奇跡を信じていればそれは宗教だ。
ちなみに:現代アーティストがこの作品の顛末について書いたブログはこちら。
解説を聞いた滝沢さんは「もう何も信じられない…」と言っていた。
そして取られるワイシャツ。
ダイジェスト処理の6~10問目
まだ問題は半分も終わってないのだが、既にこの記事は7000文字を越えた。読んでるあなたも飽きてきたと思う。書いてる僕でさえ飽きてきたのだから間違いない。
そういうワケで、ここからはダイジェスト処理でサクサクお送りする。問題と答えは全部お見せしていくので、あなたもアートかゴミか予想しながら読んで欲しい。
6問目
問題はこちら。
かぶりついて写真に注目する滝沢さん。
もはや、1問目で「ゴミでしょ」と即答していた彼はそこにはいない。自分の直感を信じられなくなった彼は、そこに存在するメッセージを必死で探している。
7問目
問題はこちら。
滝沢さんはこの写真を前に、なぜかオネエずわりになっていた。人は感性を高めようとする時、オネエずわりになるのかもしれない。
そして取られるズボン。
8問目
問題はこちら。
【解説の要約】
木に結びつけてあるのは電源ケーブル。縛り方は「首吊自殺の際に用いる縛り方」である。
ありふれた日常の中に突然出現する死を象徴している
9問目
盤外戦に頼り始める10問目
なくなっていく感情と衣服。心に積もっていく絶望感。
地獄の様相を呈し始めたクイズも、終盤に入った。
10問目は、こちら。
問題を受け取った時点で、彼の裸の背中には諦めの色が浮かんでいた。
「ねえ、これぶっちゃけどういう意図?入水自殺とかを表現してるの?」
彼の精神は既に限界に達している。完全に読み切ったと思った前の問題は大ハズレで、衣服は既にパンツと靴下を残すのみとなった。
弱りきった彼は、もはや「己の感性」には頼れないのだ。正々堂々とは言い難い発想に至るのも、必然なのかもしれない。
無秩序を忍ぶよりは、むしろ不正を犯したい。
これはゲーテの言葉だが、このときの滝沢さんの心境をよく表しているだろう。自分の感性が信じられなくなった今、彼は無秩序の迷宮の中に置き去りだ。不正だろうが裏ワザだろうが、なんだって使うのだ。
溺れた者は藁をも掴む。彼は必死で現代アーティストの顔を見る。
その時の現代アーティストの表情は、これだ。
ゴミを見る顔である。何の感情もない。
ゴミを見るプロであるはずのゴミ清掃員芸人はこの瞬間、ゴミとして見られていた。皮肉なものだ。
何も分からないまま、虚しく時間だけが流れていく。滝沢さんのうつろな視線は、無意味に写真の上を動き回るばかりだ。
彼は、安らかだった。大げさに悔しがったりしない。むしろ間違えることで焦燥から解き放たれたような、そんな様子だ。
もしかしたら、彼はこの1問をもう捨てていたのかもしれない。自分の感性を信じられなかった弱さを断ち切るために。次の問題に、全力で挑むために。
そして彼は靴下も失い、残すはパンツのみとなった。
図ったような展開である。ラスト1問で、残機1。「野球は筋書きのないドラマだ」というよく知られた名文句があるが、僕は付け加えたい。「脱衣現代アート分別クイズも、筋書きのないドラマだ」と。
静寂の最終問題
長かった戦いも、とうとうこれで終わる。最後の1問。
「最終問題は、こちらです!」
僕がそう告げると、滝沢さんは鋭い眼差しで観察を始めた。先ほどまでの弱気な男はそこにはいない。
背水の陣、と言うのだろうか。彼はパンツ1枚になり、「もう後がない」という状態になったことで、最高の闘志が湧いているらしい。
彼の表情は、真剣そのものだった。ただひたむきに、目の前のドレスと自分の感性に向き合う。
全裸になるかどうかとか、芸人としての意地だとか、そんなものはもう彼には関係ないみたいだ。ただ愚直に、自分が持てる限りの観察力を駆使して、ドレスを感じ取る。
それはまさに、理想の鑑賞者だ。
そして、その時は訪れる。滝沢さんの最終回答だ。
冷静な目で、しかし確かな情熱を持って、彼は「ゴミです!」と叫んだ。
今日の戦いを締めくくるラストアンサーは、冷静と情熱の間で静かに響き渡った。
見事正解を掴み取った彼は、今日一番のガッツポーズを見せた。
ありありと浮かび上がる腕の筋肉、首筋の血管。最初で最後の完全な自力正解の歓喜に、彼は震えていた。
滝沢さんは、誇らしげに笑っていた。
「喜びのパターンが少ない」なんて言ってしまって申し訳なかった。最後の砦を守りきった彼は本当に嬉しそうで、大きな仕事をやり遂げた男の顔をしていた。
滝沢さんからの宣伝
やり遂げた良い顔だったので、その流れで著書の宣伝をしてもらった。
彼は今年の8月、新しい本を出したという。そのタイトルは、「ごみ育」。
この本には、”ちゃんとした”分別クイズが50問載っている。主に子どもを対象とした本だ。
「なぜゴミを分別する必要があるか?」から始まり、「フードロス」や「海洋プラスチック」といった社会問題にまで、クイズに答えながら楽しく学ぶことができる。
今回、滝沢さんがクイズを解きながら現代アートについて驚くべき速さで学んでいたように、子どももクイズに答えることで、間違いなく質の高い学習ができるだろう。小学生くらいのお子さんをお持ちの皆様は、ぜひご購入を検討されたい。
また、コミックエッセイ「ゴミ清掃員の日常」と、エッセイ「このゴミは収集できません~ゴミ清掃員が見たあり得ない光景~」も好評発売中である。
「一般家庭からえのきバターが30リットル排出されていた」といった、清掃員ならではの驚きの体験がコミカルに描かれている。大人の方はこちらをぜひどうぞ。
終幕、そして。
こうして、全11問のクイズと、宣伝が終わった。
あとは、解散を残すのみである。
「お疲れ様でした。」「お疲れ様でした。」
彼は一人、薄暮の住宅街に消えていった。
皆さん、いかがだったでしょうか。
これが今回、私が皆さんにお見せしたかった最後の現代アート作品「奪われた男」です。
彼はこの後、行き場を求めてさまよいます。パンツ一丁で、片手に現代アートを持って。
じきに自分の名前さえも言えなくなり、ただ現代アートを求める妖怪になるのです。
そして、「現代アートはどこだ…」とつぶやきながら、現代アートのことを考えている人のもとにやってくるでしょう……。
現代アートのことを考えている人……それはつまり……
この記事を最後まで読んだ、あなたです。
きっと彼は今晩、あなたの家に行きます。
夜中に耳元で「現代アートはどこだ」と聞こえても、決して後ろを振り返ってはいけません。あなたも、現代アートを求める亡霊になってしまいますよ……?
※この物語はフィクションです。