「そんなことを書いたら、◯◯が嫌な気持ちになるだろ!!ふざけるな!」
毎日のように目にしてすごく嫌な気持ちになる言説だ。本当に本当に嫌いなので、この言説は滅びて欲しいと思う。
フォロワーが減ろうがなんだろうが、僕は本当に嫌いなものには怒ってしまう。
最近は、このツイートに対して怒った。
https://twitter.com/Dryer_/status/1017791392368611328
僕は腹が立ったので、日曜の朝から連続ツイートで荒ぶってしまった。
はい出た。僕の嫌いな第三者からの【セクハラだろ】【常識で考えろ】。
本人たちが傷ついたりセクハラだと感じたなら問題だろうけど、全く関係ない外野が本人の気持ちを代弁して断罪しにくるの、やめようよ。
際どい面白さを批判するかどうかはまさに【当人の承諾】に依って立つべきだろう。 https://t.co/iOz2NlHjEi— 堀元 見@あそびカタのプロ (@kenhori2) July 15, 2018
ちなみに、僕も問題となっているリツイート自体は【面白いけど、公式がリツイートするにはちょっと下品すぎるかな…?】と思う。
しかし批判は【運営者の品性が下劣ではないか】という運営のしかたへの批判にとどまるべきであり、【セクハラだ】とか【本人が傷つく】という代弁であってはならない。
— 堀元 見@あそびカタのプロ (@kenhori2) 2018年7月15日
自分が気に入らないだけなのに、いもしない被害者を捏造して、正義の使者を気取る姿勢は本当にヘドが出る。
こうして自称【正義の使者】が増えた結果、いもしない被害者への忖度によって面白いコンテンツがどんどん潰されていく。それだけは絶対許せない。
— 堀元 見@あそびカタのプロ (@kenhori2) 2018年7月15日
僕は世の中の「面白さ」が最大化することを心から希求するものです。被害者なき炎上によって、トガッた面白い企画が消滅するのは本当にもったいない。
不要な忖度によってつまらない儀式ばかりが増え、面白いものが減る世の中であっていいはずがない。
— 堀元 見@あそびカタのプロ (@kenhori2) 2018年7月15日
その辺、つい先日も書きました。よろしければ合わせてどうぞ。
”あなたが不愉快だからって安易な批判はやめよう。それともあなたは面白くない世界がお好きですか?”https://t.co/KY2fHjnAk4
— 堀元 見@あそびカタのプロ (@kenhori2) 2018年7月15日
はい、ということで、久しぶりに日曜の朝から荒ぶってしまいました。タイムラインを汚してしまいまして申し訳ありません。「被害者なき炎上」はめっちゃ嫌いだから見つける度に怒っちゃいますね。
次のツイートから急に楽しそうな話をしま〜〜す!!
— 堀元 見@あそびカタのプロ (@kenhori2) July 15, 2018
僕は「被害者なき炎上」が嫌いだし、被害者なき炎上を避けるために「トガッた企画を避けないといけない世の中」はもっと嫌いだ。
ということで今回は、「第三者がやっていい批判と、やっちゃダメな批判」の違いについて書いていこうと思う。
ここの区別がグチャグチャの状態で「ふざけんな死ね!」と人々が猛烈に批判するせいで、被害者なき炎上が生まれて世の中がつまらなくなる。
第三者がやっていい批判
まず、第三者がやっていい批判だ。以下に一覧を示す。
- 自分の「嫌い」の表明
- 社会に対する「物理的な不利益」の指摘
- 誤った情報の指摘
細かく見ていこう。
自分の「嫌い」の表明
これはやってもいい。「俺はこいつが嫌いだ!」「こいつは面白くない!」ということは、ドンドン言っていけばいい。
それはあなたの主観だからだ。思うことも、言うことも、全てあなたの主観に委ねられている。あなた以外の全人類が好きだと思っても、あなたが嫌いならそれは「嫌いだ」で良い。勇気をもって言っていい。
それなのに、どうも多くの日本人は「嫌いだ」と表明することは悪だと思っているらしい。
だから、本音は単に「嫌いだ」なのに、ジェンダーがどうのこうの、民族がどうのこうの、扱いやすい武器(正義)を探して手当たり次第に武装しようとする。
「嫌いだ」と表明できないから、正義の使者を気取るのだ。これは本当に厄介で、ヘドが出る。
機動戦士ガンダム00に、こういうセリフがある。
引き金くらい感情で引け!己のエゴで引け!
僕は正義の使者を気取っている人を見るたびにいつもこのセリフを思い出す。
嫌いならば「嫌いだ」と表明しよう。己のエゴで引き金を引こう。何らかの正義の下で引き金を引こうとするな。
社会に対する「物理的な不利益」の指摘
「悲しむ」のような「感情的な不利益」は外部から測定することができないが、「物理的な不利益」については別だ。ここを指摘することはできるし、してもいい。
具体的に言うなら、「黒人を雇用するのはやめよう!」という運動については、明確に物理的な不利益を指摘できる(黒人が悲しむから、とかではなく)。
例えば、能力が高い黒人を登用しないことによる社会の損失だ。
黒人の能力に白人との差がない(少なくとも、科学的に能力が劣っていると信ずる根拠がない)のであれば、黒人にも自由競争の機会を与えてきちんと雇用するべきだ、と言える。その方が社会全体の生産量は多くなると考えられるからだ。
このように、「黒人が悲しむから」ではなく「黒人を雇用しないのは社会の損失だ」という指摘は第三者からもできるし、してもよい。
誤った情報の指摘
これは当然のことだが、完全なデマや情報の誤りについては指摘して批判してよい。
「2018年現在も、アメリカでは黒人がマトモな職につけないらしい」という話は完全にデマなので「完全なデマだ」と批判してもよい。
……以上、第三者からしてもよい批判を見てみた。
一方、第三者がやってはいけない批判は、以下のようになる(こちらが本日のメインテーマである)
第三者がやってはいけない批判
- 「◯◯が不愉快になる!」という、被害者の代弁
- 正義の旗を振りかざした批判
以下、1つずつ見ていこう。
「◯◯が不愉快になる!」という、被害者の代弁
冒頭で引用したツイートはまさにこのパターンに該当する。あまりにも多くの人がこれをやってしまっていて、見るたびに僕は気分が悪くなる。
これに関してよく覚えているのは、2011年の東日本大震災のときのことだ。あの時期、テレビではこんなCMが流れまくっていた。
なぜこんなことになったかというと、企業がそれぞれ広告を自粛したからだ。
どうも、震災時にガシガシ明るいCMを流していると「震災で皆が大変な時になんだそのテンションは!」とか「震災で困っている人がたくさんいるのに、お前は金儲けか!」とか言われて叩かれるらしい。だから、企業は宣伝を自粛するらしい。
僕はワケが分からなかった。企業が健全に利潤を追求するのと、震災で被害を受けた人がいることと、何の関係があるというのか。
この現象はまさに被害者の代弁によって引き起こされているのだろう。
実際に被災した人が、避難所の中でテレビを見ながら「私たちは被災してツラいのに広告をやるなんて不謹慎だ!利益が一番なのか!」と怒るだろうか。
おそらく、というかまず間違いなく、怒らないだろう。
では怒っているのは誰かというと、ヒマな代弁者たちである。CMをする企業に対して「ふざけるな!被災した人の気持ちを考えろ!」と訴える。どうしようもない代弁者たちである。
代弁するな。「誰かが不愉快になるかどうか」はその誰かの立場にならないと分からない。
「傷ついた人の気持ちを勝手に代弁して怒る人」(例:○ちゃんの気持ち考えて!)は、かなりの量生息している。全滅して欲しい。
「嫌な気持ちになる」は極めて主観的だから、代弁する権利や能力は誰にもない。浮気してるAくんをお前の価値観で責めるな。Aくんの彼女は浮気を歓迎するかもしれない。
— 堀元 見@あそびカタのプロ (@kenhori2) April 13, 2018
正義の旗を振りかざした批判
先述したが、「俺はこれが嫌いだ」という表明をするのを悪だと考える人は多い。しかし彼らは「嫌いだから攻撃はしたい」と考える。
この矛盾をどう解決するのかというと、彼らは攻撃するのに使えそうな「正義」を探す。
例えば、このあたりはよく使われる「正義」だ。
- 常識
- ジェンダー
- ハラスメント
「常識」。なんと便利な武器だろう。論理の積み上げや事実の検証もせず、一方的に相手を批判できる。「常識的にありえない」と、一方的に相手を批判できる。
僕は、「嫌いだ」を「常識的にありえない」と言い換えて批判する人が心の底から嫌いだ。こういう人はめちゃくちゃたくさんいる。
ソクラテスは当時の常識を無視したから死刑になった。ガリレオは当時の常識を無視したから裁判にかけられた。常識という正義を振りかざして批判する人が、こんな過ちを繰り返してきた。
「嫌いだ」を「常識的にありえない」と言い換える人が今まさに攻撃している人は、現代におけるソクラテスかもしれない。
常識なんて正義を振りかざして人を攻撃するべきではない。常識なんて大抵は、何の根拠もない、一瞬の価値観に過ぎないのだから。
人を批判するのは構わない。でも、「常識」なんて安易な正義に頼るな。君の言葉で、君の「嫌いだ」で批判しろよ。
まとめ
- 「嫌いだ」という表明は悪いことじゃない。ドンドンしよう。
- 「嫌いだ」を言い換えて「◯◯が悲しむから〜〜」とか「常識的に〜〜」とか言い出すことは悪だ。代弁者や正義の使者であろうとするな。
- 脊髄反射で批判してないか?代弁者や正義の使者を気取ってないかどうか、もう一度確認しよう。