生活費をクラウドファンディングしたり、誕生日おめでとうの代わりに300円を求めたりしています。堀元です。
さて、本日こんな記事を目にしました。
クラウドファンディングってなんでもあり?良いプロジェクト悪いプロジェクトの持論
趣旨としては、「自分勝手なクラウドファンディングはダメ。悪いプロジェクトである」です。
読んでみると、こう書かれています。
(ポルカは)本当になんでもありっていう状態になっていて
- 〜〜がほしい!
- おめでとうっていう言葉はいらないからお金をくれ
みたいなクラウドファンディングを見かけるんですね。
正直あんまり気持ちよくないなって思っていた……(後略)
思いっきり僕のことが書かれていたので笑いました。
上の記事を書いたタロウさん(@syuty )の観測範囲に入っていたことを喜ばしく思いつつ、まあせっかくなのでここで意見を表明しておこうかなと思います。
先日の「誕生日おめでとうに対して金くださいって返してやったわww」みたいなゆるふわ記事ではなく、比較的ちゃんとした論理に則って「自分勝手なクラウドファンディングは是か非か?」というテーマについて議論したいと思います。
前提
タロウさんの記事でも言及されていますが、自分勝手なクラウドファンディングが近年話題になっています。
一番話題だったのが、大炎上した出産クラウドファンディングでしょう。大学生だけど妻が妊娠しちゃったので、出産の費用と育児費用を集めますよ、というものです。
タロウさんの主張は、「出産クラウドファンディングのような自分勝手な目的でお金を集めるクラウドファンディングなりポルカなりはよくない」というものです。
僕はこれに正反対の立場でして、自分勝手だろうがなんだろうがどんどんやろう。金はガンガン投げてもらおうという、自分勝手ファンディング推奨派です。
何なら、自分が金を投げられるだけでは飽き足らず、他人が金を投げられる場を作っちゃうほど推奨派です。
「2018卒で就職しなかったヤツに金を投げる会」やります。7月4日(水)の夜。予定確保してくれな!
よろしくね!!来たい方はFacebookイベントページに参加予定押すかDMくれるかしてください!!今年の就職しなかったヤツらは豊作だからとてもおもろいよ!!!https://t.co/PNw3Bx405n pic.twitter.com/rVtioZst0r
— 堀元 見@あそびカタのプロ (@kenhori2) May 5, 2018
ということで、反対派のタロウさんに対して、推奨派の僕の意見とロジックを書かせてもらおうと思います。
論点整理
まずは問題を切り分けて整理するよ〜。
最終目標(決着をつけたい問題):「自分勝手なクラウドファンディングは是か非か」
です。
続いて、この最終目標に向かうための、根拠の部分。
タロウさんの、「自分勝手クラウドファンディングがダメであるとしている根拠」を抜き出してみました。
- お金をもらったからには、支援者に価値を返す責任がある
- 「金銭的な支援をしなければ応援しちゃいけない」空気が出る
色々書かれてますが、根拠はこの2点に収束しそうです。
ということで、まず
- お金をもらったからには、支援者に価値を返す責任がある
- 金銭的な支援をしなければ応援しちゃいけない空気が出る
この2点の妥当性を見ていきます。
「お金をもらったからには、支援者に価値を返す責任がある」について
まず一点目の根拠について。
この主張、言い換えると、「何か価値を提供しなければお金はもらってはいけない」ですね。
これ、すごくよく分かるんですよ。この考えを持ってる人、めちゃくちゃ多いと思います。
しかし、この考えは大いに間違っています。
僕もかつてはこの考えに取り憑かれていましたが、たった1つの文章が、この考えを駆逐してくれました。
その文章が、こちら。
マッチ売りの少女を殺したのは誰か。ー 自分をオープンなものにしている限り人間は絶対に死なない。
坂爪圭吾さんの名文です。本当に素晴らしい文章なので是非全文読んで欲しいです。
文章の概要がよく表現されているツイートがこちら。
マッチ売りの少女の物語を頻繁に思い出す。もしも少女が「マッチを買ってください」ではなく「誰か助けてください」とお願いしていたら、寒空の下で死ぬことはなかったのではないだろうか。「生きるためには何かを売らなければいけない」という考え方に、最近は違和感を覚えるようになった。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) January 31, 2015
お分かりでしょうか。
マッチ売りの少女を殺したのはまさに「何か価値を提供しなければお金はもらってはいけない」という考えです。
人に価値を提供することは難しいことです。飢え死にしそうな瞬間、提供できる価値が存在しないことも十分ありえます。マッチ売りの少女はそうでした。誰もマッチに価値を感じなかった。
それでも、何か価値を提供しなければお金はもらってはいけないと考え続けていたから、マッチ売りの少女は死にました。
少女が死ぬこの考えは、人を不幸にします。功利主義的に考えると、間違いなく正しくない考えです。
また、資本主義の本質という観点で見ても、贈与や相続、寄付といった行動は資本主義における当然の行動として組み込まれています。
お金を持った主体は自らの自由意志でお金を移動させられるので、何ら価値を生んでいない人にお金を渡すのも自由なワケです。
資本主義のルールブックにおいても「価値を提供していないけどお金をもらう」は何らおかしくない行動です。
人を幸せにするか?という尺度においても、資本主義の趣旨に沿っているか?という尺度においても、「価値を提供していないが、お金をもらう」という行動は肯定されるべきであると考えます。
金銭的な支援をしなければ応援しちゃいけない空気が出る
続いて二点目の根拠。
これ、タロウさんは言及していませんでしたが、捉え方が2つありますね。
- 「誕生日おめでとう」とか要らないから金をくれ、と僕が言うことによって、僕をタダで応援しにくくなる
- 「誕生日おめでとう」とか要らないから金をくれ、と僕が言うことによって、世間一般をタダで応援しにくくなる
それぞれ見ていきましょう。
①について
①についてはシンプルで、全部僕の自己責任です。
「そうなるかもしれないが、そうなっても何の問題もない」という話になりますね。
僕は実際「誕生日おめでとう!」みたいな茶番は別に要らないので、なくなってお金をもらえた方が嬉しいですし、世間にも何の迷惑もかけません。
②について
で、問題なのは②の方ですね。
僕が「誕生日おめでとうとか要らねえから金をくれ!」と表明することによって、
という風潮が生まれ、社会一般における応援の言葉が減る、ということです。
これは確かに問題ですね。僕が軽率にやってるポルカのせいで、応援の言葉が嬉しい人の喜びが減ってしまう。
が、これは現実的に起こらなさそうです。
一部の人が「無償の◯◯はダメ!有償化します!」と言い出していたとしても、それが世間一般に広がることは普通ありません。
例を挙げます。
アイドルと握手をすることは無料サービスではありません。CDを買って握手券を手に入れないといけない。
これは広く知られた現象です。
しかしだからといって、初対面の人と握手をする時に躊躇しますか?
「ひょっとして無料で握手を求められるのは迷惑なのでは……」となりますか?ならんでしょう。
以上、①②両方の解釈において、「金銭的な支援をしなければ応援しちゃいけない空気が出る」についてはそれほど問題視しなくてよさそうです。
まとめ-自分勝手ポルカはマッチ売りの少女を救う
以上、冒頭で見た
- お金をもらったからには、支援者に価値を返す責任がある
- 金銭的な支援をしなければ応援しちゃいけない空気が出る
の2点については、それぞれ反証できたつもりです。
また、僕が自分勝手ポルカ(ないしクラウドファンディング)を全力で肯定する大きな根拠は、「お金をもらったからには、支援者に価値を返す責任がある」についての部分で主張しました
マッチ売りの少女が思い込みで死んでしまう世の中は、悲しすぎるからです。
「お金をもらったからには、支援者に価値を返す責任がある」という思い込みはあまりにも深く世間に根づきすぎていて、あまりにも多くの人がこの思い込みに苦しんでいます。
という理由で、スモールビジネスに挑戦できない人が、あまりにもたくさんいます。
と、毎日必死になって”価値”を提供しようとしている人がいます。
マッチ売りの少女は、至るところにいます。
現代に溢れるマッチ売りの少女を救うものが、「価値を提供しないとお金をもらってはならない」という呪縛からの解放であり、自分勝手ポルカです。
「自分勝手にお金を集めようとしやがって!」と怒らず、どうか認めて欲しいのです。
それが、現代に溢れるマッチ売りの少女を救うことに繋がるのだから。
以上、僕が自分勝手ポルカを全力で肯定する理由でした!
あ、読んで面白かったらまだ間に合うので誕生日プレゼントで300円ください!→「誕生日おめでとう」とかマジで要らないから300円ください