品行方正な若者が多すぎる。
僕はまだ24なのだけれど、自分と同じかそれより下の世代は、すごく品行方正である。
特に能力のある人たちはそうだ。大抵の場合、能力ある人たちはものすごく遠慮深いし、人に気を使える。
だから、面白くない。
やりたいことについての話を聞いた時に、
という、すごく上品な理由が出てくる。彼らは大抵どんな受け答えもキレイにこなすし、優秀である。
でも正直僕は、
となる。
僕の事業はエゴから始まった
僕は今、”遊び作り”を仕事にしている。
その理由は、大学時代のこういう経験によるものだ。
「僕が」普通の遊びが退屈だったので、「僕が」楽しめる遊びを世間に増やそうと思った。
エゴ以外の何者でもない。
このエゴから始まったのが、僕の”遊び作り”だ。
したがって、僕の一番正直なモチベーションを答えると、
ということになる。
しかし、世の中の人にこれを答えるとアホだと思われそうなので、僕はしばしば
世間にある多くの遊びは、”消費”でしかない。決まったルールの中で、想定内の場所に着地するだけだ。
本当に面白い遊びは”生産”だ。決まりきったルールは無く、参加者のアイデア・創造性によって主催者さえも予想していない場所に着地する。
僕は、遊びのスタンダードを”消費”から”生産”にシフトさせるべく遊びを作っている。
という説明をする。
このレベルまで言語化すると、エゴ感は薄れ、さも社会課題を解決するのが目的のような感じになる。
そう、僕もキレイな答えをする若者の一人だ。
キレイな答えができた方が協力者を探すのにも都合が良いし、何と言っても身の周りの大人に能力をアピールしなければならないから、キレイな答えを用意している。
しかし、スタート地点は完全なエゴだった。
というかぶっちゃけ、自分で事業を起こそうとする奴なんて、全員エゴで何かを始めているようにしか思えない。
皆がエゴで事業を始めている
という人は、自分が引っ越し好きなのに引っ越しにくいのが嫌なのだと思う。
という人は、自分が学校で受けてきた教育が嫌だったのだと思う。
結局、僕が”この遊びは嫌だなあ”と思ったのと同じで、”◯◯が嫌だ。変えたい”という感覚(=エゴ)から、皆の事業はスタートするのだと思う。
車椅子の人の生活を改善するみたいな、いかにも社会的に意義がありそうな事業でも、多分スタートはエゴだと思う。
きっと、家族や大切な人の中に車椅子の人がいて、その人が苦しむのを見たからやりたくなったんだと思う。これも立派な「この人が苦しむのは嫌だ。世界を変えよう!」というエゴだ。
または、単に「お金が儲かる領域だ!」と思いついたのかもしれない。言うまでもなくこれもエゴだ。
僕は皆のエゴが聞きたい
エゴから始まってるのに、何となくエゴを隠さないと行けない風潮がある。
だから、”キレイな理由”が出現する。
といった調子だ。
けれど、最初に言ったように、僕はその理由を聞いても
となる。理屈は分かっても、あんまり感情移入して話を聞けないのだ。
こう語ってくれた方が感情移入できる
でも、敷金礼金とかのせいで引っ越しづらくて…めっちゃ腹立つ!!だから直したいんですよ!
どうだろう?すごく頭に入ってくるのではないか。
僕は思う。
と。
きっとエゴを語ってくれる方が面白いし、頭に入ってくる。そうあるべきだ。
そうは言っても、”キレイな理由”が必要だ
だからといって、
しか出てこなかったら、
と思ってしまう。能力が疑われるし、事業として成立する気がしない。
だから、エゴと社会課題を絡めて語るのが良いのかな、と思う。
自分の怒りとか、納得行かない部分(エゴ)から始めて、だからこうしたいんです!とキレイな理由につなげるのが良いのだろう。
僕で言うなら、これだ。
ダーツなんて2ゲームもやってたら、途中からグラスの氷を投げたくなりますよ。俺にオリジナリティを発揮させろ!と。
そんな感じだったから、面白い遊びって何かを考えたんですよ。結論は”生産”でした……(以下、キレイな説明に続く)
このくらいが一番良いのかな、と思う。
「自分のエゴを出すのは良くないこと」という風潮に負けて、キレイな理由だけを語るのはあまり良くない。
エゴがないということは、その人の情熱が見えないということでもある。エゴを隠した説明は、話が入って来づらいのだ。
まとめ
エゴをチラ見せしつつ、キレイな理由につなぐ。それを意識しよう。
皆さんにおかれましても、自分のやりたいことを説明する時には意識することをオススメします。