もし、蛇が脱皮できないとしたら、滅びるしかない。
─ニーチェ
僕は2015年2月から、「ムダ祭り会」というイベント団体の代表をしていました。
僕のイベンターとしての原点であり、フリーランスになるという踏ん切りをつけるきっかけになった場所です。
だから関わってくれた皆が大好きで、続けたかったのだけど、もうどうしようもない領域まで崩壊させてしまいました。
先日、最後のイベントを終えて、正式に解散しました。団体としての最後のイベントは、「twitterけいどろ」というイベントでした。
僕のマネジメント能力の欠如が招いた崩壊でした。とても悔しくて悲しくて、でも作ったことは後悔していなくて、色々な学びとか喜びがあったので、それをまとめてみます。
発端:ああ、皆かまくらを作れば良いんだ!
団体を作ろうと思ったきっかけは、僕が地元北海道でやった巨大かまくら作りでした。
僕のイベンター人生の最初のイベントでした。このかまくら作りがめちゃくちゃ楽しくて衝撃的な体験だったので、その理由を考えたのです。
この当時の僕の理論はシンプルでした。
僕はそう考えました。義務になってしまっている日常の作業ではなく、必要のないことをやる非日常の作業だからこそかまくら作りは面白いのです。
と、思いました。
そして、僕はこういう体験をたくさん提供できる場所を作ろうと思いました。それがこのムダ祭り会でした。
創成期
最初に誘ったNくん
一人で始めるのは寂しかったので、最初はとにかく友人を誘うことにしました。
当時大学生だった僕は、大学の同じ学科の友人であるNくんを誘いました。彼は二つ返事でOKをくれて、早速最初のミーティングをしたのを覚えています。
初期は、ミーティングがとにかく楽しかったです。あれもやりたい、これもやりたい、と言いながら、どんどん新しいアイデアを膨らませていきました。
ゼロから組織を始めるのは初めてだったので、ものすごくワクワクした記憶があります。
気分は映画「ソーシャル・ネットワーク」のザッカーバーグです。(確か当時この映画を見た直後で、露骨に意識していたような気がする)
グダグダの第一回イベント
勢いだけで始まり、代表はザッカーバーグに憧れたパッパラパーなので、当然、滑り出しはグダグダでした。
そりゃあもう近年まれに見るグダグダさでした。
そのイベントの内容とは…ズバリ!「特技交換祭り」!!
居合わせた人と10分間限定で特技を教え合って、中途半端にたくさんの特技を身につけよう!という企画でした。
こうして見返しても、
という感じですね。シュールさは良いんですけど、なぜ第一回でこの企画にしようと思ったのでしょうか?人が集まると思ったのでしょうか?
イベント自体はなかなかの大失敗でした。
スタッフが直接呼んできた友達以外は誰一人来ませんでしたし、内輪感溢れる空気になってしまいました。
参加者数は、あまり記憶にないですが、15人とかでした。この15人も内訳は「スタッフの友達」オンリーです。自然に来てくれたお客さんは一人もいませんでした。
そんな様子だから、「何か呼ばれたから来ました」みたいな感じで客のテンションも低く、よく分からないままに終わったというのが率直な印象です。
イベント自体も「もうちょっと色々考えなさいよ…」という問題が多発しました。
例えば…
こちらは、ゴリゴリ体育会系の男が寝た状態から腕一本でいきなり立ち上がるという特技を披露しているところです。
これを奥の細身の女性に教えてるのだから、たまったものではありません。できねえよ!!
採点シートを作ったりとか、細かいところに凝ったりしてはいたのですが、それ以前にもっと頑張るところがあったようです…!
それでもナゼか「俺たちやり遂げたぜ!」的な写真を撮りました。
そんな問題だらけで走り出した団体でしたが、イベント自体のできの悪さとか、考えの及ばなさは問題ではなかったと僕は思っています。
全員素人だらけの環境の中でしたから、クオリティの低さは仕方ないです。それに、経験を積むにつれて運営の技術自体はどんどん上がっていくはずです。
この創成期で、致命的に問題だったのは、僕のスタンスでした。
多くの人に関わってもらおうとした
僕は、とにかく多くの人に関わってもらおうとしました。
メンバーをどんどん増やして、ひたすら色んな人が参加してくるのが正義なのだと思っていました。
今になって思えば、これほど愚かな発想もありません。僕は地盤もはっきりしていない集団に、どんどん人を引き込もうとしていました。
そして、人は増えていきました。しかし、誰も何かを本気で作ろうとしてはいません。
「なんとなく遊びで顔を出しています」という人が増え続ける一方で、仕事を分け合えるような「本気の人たち」は誰一人増えませんでした。
結局、僕は「とにかく多くの人をスタッフとして呼び込もう」という発想の間違いに気づけぬまま、一年近く同じ方針で人を増やし続けました。
それでも、少しずつ前に進んでいた
非常に歪な団体ではありつつも、徐々に僕たちは進んでいきました。
第一回イベントから一ヶ月の間を空けて行われたのが第二回イベント「1万回振る祭り」でした。
こちらは、グダグダっぷりは多少なりとマシになりました。
無理やり集めた客ではなく、ある程度前向きに参加してくれる人も増えました。企画は相変わらずシュールでしたが。
この写真は「振りながらジェンガしようぜ!」と言ってジェンガをやっているところです。
信じがたいですが、予想以上に盛り上がりました。
クセのある参加者に恵まれたのが良かったですね。とてもいい空気でした。
そんな実感があって、僕は舞い上がっていました。
舞い上がるリーダー(僕)と、増えていくスタッフ、微妙に溜まっていくノウハウ、団体としてはそんな時期に入ります。
発展期
大きくなる団体と、僕の舞い上がり
前述の通り、スタッフは少しずつ増えていきました。
僕はそんな中、団体を大きくしようと更に色々なチャレンジをしました。
チャレンジの中の一つが、Youtuberである水溜りボンドの動画への出演でした。
僕は「ムダ祭り会」と「Youtuber」はかなり質的に近いと感じていて、ファン層も近いのではないかと仮説を立てました。
そして、勢いのあるYoutuberの動画に出演しようと考え、何組かにオファーを出しました。唯一食いついてくれたのが、水溜りボンドでした。
今でこそかなり有名なYoutuberになっている水溜りボンドですが、当時はチャンネル登録者数もそれほど多くなく、すんなり僕はムダ祭り会の宣伝のために出演することができました。
目論見は悪くなく、この動画からムダ祭り会に興味を持ってくれた人が現れました。実際、イベントに来てくれるお客さんも増えました。
そんな中、他の団体との絡みも少しずつ生まれ始めます。
僕が当時在学していた慶應義塾大学には「ペン回し研究会」なるサークルがあったのですが、そのサークルの人と一緒に遊んだり、ペン回し研究会の人にイベントに来てもらったりしました。
スタッフも増え、客も増え、仲良くする団体も増えて、僕の舞い上がりは終わりません。
とか考えていたかもしれません。
しかも、「日経MJ」という新聞から取材が入ったりもして、ますます僕の舞い上がりは止まらなくなっていました。
しかしその実、僕は違和感を覚えてもいました。
上の施策は、全て僕の戦略、僕の努力、僕の仕事によるものでした。団体として動けてはいないのです。
そりゃそうです。僕は漫然と人を増やしていただけで、効果的に団体を形作っていくことはできていなかったのですから。
そのおかしさが顕在化したのも、この時期でした。「リアルスプラトゥーン祭り」で、僕は組織運営の難しさを感じることになるのです。
リアルスプラトゥーン祭り
2015年の夏、僕たちは「リアルスプラトゥーン祭り」と銘打ったイベントを行いたいと考えていました。
ちょうどスプラトゥーンが流行っていた時期でしたし、キャッチーな企画なので、是非やりたかったのです。
そんな僕たちに立ちはだかる問題は、「場所」でした。
あちこちの自治体に電話しては、断られる。そんな日々を送っていました。
そんな中、以前僕らのイベントに参加してくれた女子高生が「私の家がキャンプ場の経営者なので、使ってもいいですよ」という垂涎の誘いをよこしてくれました。
そこにホイホイ乗っかった僕らは、その女子高生達との共同主催という形で、イベントをやることになります。
が、そこで痛い目を見ました。
女子高生の言ってることは曖昧で要領を得なかったり、約束したことがきちんとなされていなかったりということが当たり前でした。
そして、そもそも彼女らのコミュニケーション能力に問題がありすぎて、チームとして円滑に動くことができませんでした。僕が10聞いてやっと6の情報が出て来る、そんな感じでした。
今になって思えば、彼女らは高校生なのです。多少は仕方ないことなのでしょうが、当時の僕はかなりイライラしてしまいました。
ムダ祭り会の内部スタッフさえも思ったように動いてくれない状況でしたから、すごいフラストレーションを感じます。
そして、舞い上がることに定評のある僕もさすがにおかしいな、と思い始めました。
ありとあらゆるビジネス書の最初の方に書いてありそうな事実に、今更気づきました。
僕はかなり意識高い本を読んでいる意識高い系大学生だったので、そんな言説は幾度となく目にしていたはずです。でも、この瞬間まで僕は、肌感覚としてそれを実感してはいなかったのです。
年甲斐もなく水鉄砲ではしゃぐのは楽しかったですが、僕は心に色々な課題を感じたまま、帰路につくことになりました。
「手を打たないとな…」と思いながら浴びるキャンプ場の風は、夏の終わりを感じさせました。
黄金期
硬い組織を作るために
リアルスプラトゥーン祭りの中で確かな危機感を感じた僕は、組織としての地盤をしっかり固めようとしました。
なんとなく遊びでチョロチョロ顔を出している人達ではなく、集団として何かを生み出せるように、しっかりまとめようとしました。
手始めにやったのが、「全員と顔を合わせて話し合うこと」でした。
僕は当時のスタッフ全員と会って話しました。
雑談半分、真面目な話半分、といったバランスだったでしょうか。全員に、ムダ祭り会の方向性について話しました。
効果的だったかどうかは分かりませんが、そこで大なり小なり、皆と心の距離が縮まったのかな、とは思います。
スタッフが増える速度も加速していた
実はこの頃を境に、スタッフが増えるのも加速していました。
集団として皆を仲良くして、硬い組織にしようと奔走する一方で、人数を増やす作業も並行して行っていました。
本当はこの施策は良くありません。硬くするのなら硬くする作業に集中するべきです。
でも、当時、ネットにスタッフ募集の告知を出していて、「参加したいんですけど」という連絡がコンスタントに週に一度くらいのペースで来ていました。
僕は根が強欲なので、
という気持ちになっていたようです。新規スタッフの面接と加入もコンスタントに行っていました。
今、冷静になっている僕からしたら「増やすか固めるか、どっちかにせい!!」と怒りたくなるのですが、とにかく団体を大きくしたかった当時の僕にとっては無理からぬことだったでしょう。
会内企画部
親睦を深め、結束を深めるために、ムダ祭り会の内輪だけで遊ぶ「会内企画部」を組織しました。
そして、僕じゃない人にこの企画部のディレクションを任せようと思いました。
というのも、新規スタッフの面接をしたり皆から意見をヒアリングしたり、僕のムダ祭り会の仕事量は限界に達していました。
加えて、当時学生だった僕は卒論のための研究をしたり、4年間全力で続けていた塾講師の仕事のラストスパートもしなければなりませんでした。
したがって僕のリソース不足は深刻になり、会内企画部を人に任せることを決めました。
また、僕以外の人がリーダーシップを取って何かをやってくれることで、団体全体にも新しい責任感やチームワークが生まれるだろう、という希望的観測もありました。
会内企画部のリーダーをお願いしたのが、Tさんでした。
Tさんは当時仕事を辞めてフラフラしていたから、使える時間もかなりありました。
加えて、(今考えれば仕事を失った反動なのでしょうが)ムダ祭り会に対するコミットの意識が極めて高く、言われたこと以上の仕事を仕上げてきてくれることが多かったです。
と、僕へ積極的な意見もしてくれました。僕はこの意見が本当に嬉しかったです。
Tさんに企画部をお願いして、遊び企画をやってもらいました。
メンバーで集まって、謎解きをしたり、鎌倉で遊んだりしました。
ムダ祭り会のスタッフの皆は、キャラクターこそバラバラだったものの、多分「普通の社会でどこか生きづらかった人」という点で一致していたと思います。
そして、「ちょっとおかしな遊びが好き」ということも一致していた。
そんな人達で遊ぶのは本当に楽しかったです。不思議な盛り上がりと仲間意識がある空間でした。
最大の成功作「ドラフト鍋」
そんな、話す機会を増やしたり遊ぶ機会を増やしたりといった施策が上手くいっていると、作るイベントも良いものになるのかもしれません。
僕がムダ祭り会の中で一番の成功イベントだと思っている「ドラフト鍋」は、この時期に生まれました。
鍋の具材をドラフトして、最も美味しい鍋を作ったチームが優勝、というイベントになります。
かなり長い時間をかけて準備しただけあって、絶妙なゲームバランスだったと自負しています。
完璧に鍋を作ってきたチームが、箸をドラフトで取り損ねて箸の代わりに芋けんぴで鍋を食べることになったりと、良い盛り上がりが生まれました。
イベントも成功し、会としての遊び企画もいい雰囲気で、順調に思えました。
でも、根本的な問題は解決していませんでした。
衰退期
成功体験を共有できていなかった
イベントは成功しましたが、悲しいかな僕たちは成功体験を共有していませんでした。
前述のように「団体を硬くする」ことは少しずつできていましたが、まだ「チームとして仕事ができる」ところまでは行っていませんでした。
結局、ドラフト鍋も「イベントとして成功させてやったわ!」と手応えを感じていたのはせいぜい僕とN君くらいのもので、他のスタッフは「楽しくて良かったなあ」くらいの印象だったことでしょう。
「遊び仲間として仲良くなっていること」と「組織として成功体験を共有していること」では、結束レベルが全くことなります。
前者の状況までは持ってこれていましたが、この段階で後者にまで持っていくことはできませんでした。そうこうしている内に、成功体験のバラ付きが、温度差に繋がっていきます。
スタッフの入れ替わりが激しくなった
遊び仲間としてある程度繋がりを得て多少はまとまってきたかと思ったムダ祭り会でしたが、やはり成功体験を共有していないのは痛かったです。徐々に入れ替わりが激しくなりました。
引き金になったのは、会内企画をやってくれていたTさんがほとんど顔を出さなくなってしまったことです。
Tさんは再就職が決まり、「仕事に慣れるまで顔を出しづらい」と宣言しました。
僕はそれがとても悲しかったです。仲良くなれた気でいたTさんは、やはりせいぜい「遊び仲間」であり、本当の意味の「仲間」にはなれていなかったんだなと感じました。
他のメンバーもそんな感じでした。
来たり来なかったり、気まぐれに遊びに来るだけで、何かを作るマインドに持っていくことはできませんでした。
だからこそ、本当の仲間になっていくための施策を打っていくべきだったのでしょう。
でも、僕にはその余裕はありませんでした。
当時、僕の卒論や塾講師の仕事もピークに達しており、抜本的な改革に打って出る余力がありませんでした。僕はもうどうして良いのか分からぬまま、対症療法的な処置を繰り返しました。
相変わらず新規加入希望者は多く、「もしかしたら新しい人が何か新しい風を吹かせてくれるかもしれない」と、今度こそ本当に何の根拠もない(そして、おそらくは悪手である)にも関わらず、新規スタッフを加入させました。
より「遊ぶための団体」へ
新しいスタッフを入れていった結果、ムダ祭り会はより「内輪としての遊び団体」としての色を強めていきました。
ちょうど飲み会好き、遊び好きの人たちが多く入ったこともあり、内輪の遊びの回数は増え、飲み会は増えていきました。
週に一度のミーティングでは次のイベントの準備をしていましたが、「それも遊びの一環」くらいの認識のスタッフがほとんどだったでしょう。
それも仕方ないのです。当時の入れ替わりの激しさは苛烈を極めており、一月前のイベントであったドラフト鍋の参加者すらもほとんどいない、8割が新メンバーという状況だったからです。
全ては、成功体験を上手く共有できなかったこと、そしてわけも分からずスタッフを増やしてしまったことから起こった事態でした。
しかし、僕はどうすれば良いのか分からなかった。卒論や仕事に追われながら大きく舵を切ることはできなかった。だからそのままの方向で進めることにしました。
くらいに考えていました。
しかし今、はっきり断言できますが、そんなスタンスで団体としての結束が生まれる訳はありません。
皆で適切に仕事をこなして、成功体験を共有していくことでしか、結束は生まれません。
ムダ祭り会をめぐる一連のストーリーはきっと世間にありふれた失敗談ですが、今組織を生み出そうとしているあなたは、この教訓を覚えておいて下さい。
崩壊前夜
3月のイベントも、変わらず終えた
相変わらず遊びムードの中、僕は誤魔化し誤魔化し3月のイベントを終えました。
それが「真ホワイトデー祭り」でした。
やはりシュールな企画でしたが、これもそこそこ盛り上がって終わることができました。
しかし、やはり成功体験を分け合うことはできていません。
顔を出したり出さなかったり、と言ったスタッフに大事な仕事を任せることはできず、結局ほとんどの段取りを僕が独力で作り上げました。
僕の妙な完璧主義や不信感のせいで、ここでも成功体験を分け合うことはできませんでした。
巻き返しを図る荒療治
この頃には卒論も終わって、僕は自由な時間が取れるようになっていました。
組織としても仲が良くなっていたし、「遊び仲間として仲良し」から「組織としての結束」に、変えていかなければならないと思いました。
僕は明確な目標として、「100人規模のイベントをやること」を掲げました。
大学生のよくあるイベント団体が掲げる目標みたいな感じがして僕は嫌だったのですが、マインドを切り替えるためにこれほど分かりやすい目標はないと思ったからです。
もちろん、自分たちが信じる「ムダな遊び」で、100人集めることを目標にしました。
僕は本気です。本気で新しい遊びや文化を作って、世に送り出そうとしています。
だから、ここで100人集めることを目標にします、と、皆に伝えました。
徐々に顔を出す人が減っていった
僕は覚悟していましたが、この100人集める目標を打ち立ててから、徐々に顔を出さないスタッフが増え始めました。
仕方ないと思いました。何となく遊び感覚で入ってきて、何となく遊んでいたスタッフがほとんどだったから、人が減っていくのも当然だと思いました。
でも、僕はこうするしかなかった。グズグズやっていてはいつまでも「遊び仲間」から抜け出せないから。
残った人たちで意志を確認した
すっかり減ったメンバーの中で、改めて方向性を確認しました。僕たちはあくまで良いイベントを作って100人集めて、お客さんを楽しませるために頑張るのだ、と。
自分の持ち場の仕事を、責任を持ってやっていこう、と。
ここに至ってようやく、仕事を分割し始めることができました。
かなり少なくなったアクティブメンバーの間で仕事を分け合いつつ、ようやく組織としてきちんと動き出した実感がありました。
君はクラウドファンディングを担当してくれ。君はブログを担当してくれ。君はデザインを担当してくれ。そんな風に、初めて全員がしっかりと自分の役割を持って動き出しました。
歯車が噛み合わない感じ
しかし、ここでもかなり苦しい思いをすることになりました。僕はずっと、歯車が噛み合わない感じに苦しみました。
骨格となる仕事を任せたスタッフから「やっぱり私この仕事向いてないと思うんです。本当にすみませんけど降ろさせて下さい」と言われてしまいました。
他にも、上手く仕事が進まずに苦しんでいるスタッフのケアに追われたり、動き出しの苦しさに悩まされることになりました。
僕にはこの時点でモヤモヤとした疑問だけがあり、結論は出ませんでした。
歯車は結局噛み合わず、6月に予定していた100人集めるはずのイベント「twitterけいどろ」は、延期を余儀なくされてしまいました。
この時の僕らのテンションの下がりようと、士気を失う感じをひどくよく覚えています。
モヤモヤの正体、そして決定的な崩壊
そんなモヤモヤの正体が明確になったのは、皮肉にも「僕の不在」によってでした。
堀元の寝坊事件
twitterけいどろが10月に延期し、色々と見つめ直すことに決めていた時期のことです。
下がってしまった士気を取り戻しつつ、「分業で成功体験を積む感覚」を掴みたかったので、小さなイベントを時折こなしていました。
そしてそんな中で、スタッフのRくんに、メインとなってイベントを企画してもらいました。「とうもろこし中心の一風変わったBBQ」という企画でした。
Rくんはスタッフ最年少で皆に愛されるキャラクターで、それでいてしっかり仕事をこなしてくれるので、任せても大丈夫だろうと僕も判断しました。
僕が前に出なくて良いのは、団体としても良いことです。R君に経験も積んでほしかった僕は、段取りにはほとんど手を出さず、彼にやってもらっていました。
さて、そんなR君主催のBBQですが、マジで小規模の企画でして、参加者は一週間前で4人の予定でした。
それじゃあまりにも寂しいなあと思った僕は、仲の良かった友人2人をR君主催の企画に誘いました。
2人増えたことをR君に報告すると、R君は「え!プレッシャー!」みたいなことを言っていました。大げさだな。気のいい奴らだから大丈夫だよ、と僕は軽く返しました。
さて、情けない話なのですが、このBBQ当日の朝、僕は寝坊しました。
しかもちょっとやそっとの寝坊ではなく、集合時間5分後に起きる純度100%の寝坊です。
R君に電話で平謝りをした僕は、申し訳ない気持ちを感じながらシャワーを浴びました。
シャワーから出てスマートフォンを見た僕は、驚愕することになります。
「BBQは中止にすることにしました」というメッセージが表示されていました。
僕は驚いてR君にすぐに電話をしました。中止?どういうこっちゃ?
何しろ参加者皆、東京のハズレのめちゃくちゃ遠い集合場所までわざわざ集まっているのです。そこからの中止なんて有り得ない。
電話で状況を聞くと、「気まずい感じだったし続けられなさそうだったので…」ということでした。面識がない僕の友人2人と、気まずい感じになってしまったようです。
僕はこの時、あの歯車が噛み合わない感じの正体を悟りました。
決定的に、顧客視点が欠けているんだ。
わざわざBBQをしに来てくれた人を、帰しちゃうんだな。
ホスピタリティは、無いのかな。そう思って、悲しくなりました。
僕はそこを皆に確認できていなかったのです。イベント団体として持っているべき顧客視点とは何か、ホスピタリティとは何か、を。
そして、この問題点を解決すべく、僕は早速動きました。
その日の内に、BBQを主催したR君に電話しました。
寝坊してしまって本当にごめん。そして、僕は今日の一件でムダ祭り会の問題点を発見したよ。
ホスピタリティをしっかり持つべきなんだよ。皆、ゲストを楽しませるって感覚が薄いんじゃないのかな。
今までそこを確認できてなくて申し訳なかったけど、今後はゲストを楽しませる視点を中心に持とうよ
そんなことを伝えました。
ああ、人はなんとでも言えるんだな
後日、N君にも時間を取ってもらいました。
R君に電話したのとほぼ同じ内容を彼に伝えました。
すると、N君は僕に怒りの目を向けていました。はっきりとした怒りの目でした。
え?っていうか何で堀元はそんなに偉そうなの?お前が遅刻したからこうなったんだよ?
R君の気持ちは考えたの?一生懸命準備したのに台無しになって辛いだろうに。
それは無理からぬ怒りだったので重ねて謝りました。
そして、「でもそれは別にして、団体としての問題を僕は感じたから、これから直していかなきゃいけない」と伝えました。
彼は僕の言っていることに納得できないようでした。
自分が悪いのを棚上げするな。僕だってイベント運営なんてやりたくない。皆がいるから仕方なくやってるんだ
僕はこの時、すごい寂しさに襲われました。
結局、彼は友達ごっこをやりたかっただけで、何かを作りたくなんかなかったんだ。
「100人集められる良いイベントを作ろう」と決めた時も、意思確認をしました。それだけでなくN君とは一番長くやっていたから、一緒に団体を作ってきた気持ちがありました。
だから今回の問題も、話して解決に至れると思っていました。
でも、彼は何かを作りたかった訳じゃないんです。
その違いは、もうどうしようもないものだと感じました。
目標を設定してから、何度となく意思確認はしてきました。「僕たちは良いものを作ります」って、確認してきました。
僕はそれで任務が終わったと思ってたけど、違うんですよね。
人は、目標について深く考えていなくても、口でならなんとでも言えるんですよね。
だから、その目標について、皆の奥底に染み渡るような工夫をするべきだった。もっともっと深い領域で、確認すべきだった。
それから、他のコアメンバーとも話して、僕はムダ祭り会の解散を決めました。
良いものを生み出す集団として再起するのは、不可能だと感じました。
それから
それから、ムダ祭り会は最後のイベントであるtwitterけいどろを実施しました。
当初の予定よりも小規模にはなってしまいましたが、団体を締めくくることはできたと思っています。
イベントが終わった後、解散を宣言しました。僕の一年半の戦いが終わり、不思議な寂しさが込み上げてきました。
必死で作ってきたものなのに、終わるのはあっという間なんだなって、感じました。
でも、ハッピーエンドじゃなかったけど、これで良いんだろうなって。寂しいし悲しいけど、これで良いんだろうなって思いました。
教訓らしきもの
この一連の出来事から僕が学んだことをまとめておきます。
「多くの人に関わってもらおう」の危険性
たくさんの人が参加してくれればそれだけ大規模なことができるというのは、全くの誤解です。
地盤がグラグラな状態で積んでも、積み木はあっという間に崩れます。
きちんと組織としての骨格ができてから、必要に応じて積み木を積んでいかねばなりません。
能力や情熱のある人だけを選んで、少数で。組織づくりの最初は、それしかありません。
「仲がいい」と「結束できる」は全く別次元
ある程度の相関はあっても、本質的にこの二つは全く違います。
いくら遊び仲間として仲が良くても、何かを成し遂げるための意識ができている訳ではありません。
結束のために、やたらめったら飲み会をしてもダメですよ。かつての僕は途方に暮れながら飲み会をしていて、結局何も前に進めませんでした。
結束のためには、成功体験を共有すること
僕は上手く管理できませんでしたが、結束のためには体験の共有が必須です。
ノウハウを、作る過程の苦しみを、本番の緊張を、そして完成後の喜びを、皆で共有しなければならないのです。
それこそがチームになるということです。
「本気でやる」か「テキトウにやる」か、はっきりさせよう
大学のサークルなんかだと、とにかくこれで揉めることもあると思います。
僕は「本気でやる」一本だったのに対して多くのスタッフが「テキトウにやる」意識でした。こうならないために、これは本気なのかテキトウなのかを、何度でも確認しておくべきです。
原点がどっちなのか、それさえ共有できていれば、悲しすぎるケンカや離別を避けられます。
人は、何とでも言える
意思確認については、言葉で確認しただけでは足りません。
行動で、態度で、熱量で確認するべきなのです。さっきの意思確認が本心じゃないなと思ったら、追求するべきなのです。決着が出るまで確認するべきなのです。
人は、何とでも言えるのだから。
まとめ
長くなりましたが、これが僕が作り、見てきたムダ祭り会の全てです。
僕は、この団体運営を通して、数え切れない程のことを学びました。
そして、遊びを作るフリーランスとして生きていこうと決めたのも、この団体を通して色々な経験ができたからです。
スタッフの皆さん、上手くまとめられず、迷走の末に悲しい結末を辿らせてしまったこと、本当に申し訳ありませんでした。
でも僕は、ここで学んだこと、作り上げた経験を活かして、これからもっと良いものを作り上げます。どうか皆、許して欲しい。
そして、ムダ祭り会に関わってくれた全てのスタッフとお客様に、感謝します。ありがとうございました!
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