「天気の子」、やっと見た。
うん、ブロガーとしてはめっちゃ遅い。前前前世から来たのかよってくらい遅い。「遅いよ」と君は怒るかもしれない。うるせえな。これでもやれるだけ飛ばしてきたんだよ。
はい、ということで、乗り遅れた感があるので何も語らないつもりだったのですが、見たら感想が溢れすぎたので語ります。心が身体を追い越してきたのです。
感想を一言で言うなら、もうね、「鬼ポップ」。これに尽きる。すごすぎ。新海誠、あっぱれだわ。ここまでやられるともう絶対文句言えない。
「君の名は」を見たときは、僕正直文句がいっぱいあったんですよ。新海誠の路線これでいいんですかと。秒速5センチメートルとかで確かに見せた「叙情性を丁寧に描き出す芸風」を捨てていいんですかと。
でもね、「天気の子」を見たらもう何も言えなくなりました。お前そういう感じで行くんだな。覚悟決まってるんだな、かっけえな、と。分かったよ新海誠兄ィ!! 兄貴の覚悟が!“言葉”でなく“心”で理解できた!と、そういう感じになったワケです。
ということで、今回の基本スタンスは「新海誠はすごい。ポップ路線に舵を切りきって一切迷わなかった。この徹底がホントにすごい」という感じになります。新海誠を褒めます。よろしくお願いします。
YouTuberになった新海誠
まず最初の40分で度肝抜かれるの。完全なYoutuber。カットが多用されて、登場人物が喋ってるところばかり使われる。【沈黙】という本来映画に不可欠だったはずのシーンはことごとくカット。
「君の名は」の時は「Youtuber的だなあ」ぐらいだったんだけど、今回はもう「あ、これYoutuberだ」ってなった。芸風が完成した感じ。
あと「BGMがずっとついている」というのもすごい。当たり障りのないピアノBGMが前半ず~~~~~~~っっっとついてるの。これも「無音よりはBGMついてる方が良い」というYoutuber的思想。
このBGM演出、映画でやっていいのかと。意味のあるピースを組み立てていくのが映画構成なんじゃないかという映画通からの批判はボロクソありそうなんですけど、僕は「うわあすごいなあYoutuberだ」とバカみたいに思ってました。
あと、「止まっているものが一切映らない」というのも映画全編を通して言えるYoutuber的な特徴。街を写すときも常にカメラが動いたり、雨粒が飛び跳ねてたり、夕日や花火が鮮やかな光を演出したりしていた。唯一RADWIMPSの挿入歌が流れる時に止まった街を映してたけど、これは明らかに「音楽を聴かせるために邪魔しない」画像だった。
大量に放り込んでいるドタバタコメディ部も、「ちょっと、どこ見てんのよ!?」等のように小学生でも分かるシンプルなものばかり。サブカル層が好む小難しいジョークなど一切要らない、全員分かるものだけを追求するという強い哲学が見える。めちゃくちゃ悪い言い方をすると「オレはバカに受ける映画を作るぞ」という哲学がはっきり分かる。
序盤だけで僕はもう「ポップすぎる~~!!!」と叫びたくなりました。鬼ポップ。ポップコーンが裸足で逃げ出すくらいポップ。何なら、映画がポップすぎてコーン持ち込めばポップコーンになるんじゃねえの。生トウモロコシが爆裂するレベルでポップ。
「人間を描くのを諦める」という英断
やっぱり抜群にすごかったのが、人間を描くのを完全に諦めていたこと。
「映画とは何のためにあるのか」という究極の問いに対する一つの答えが「人間を描くこと」だと思うんですよ。ある状況にある人間がどういう精神状態になるのか、人間とはどういう生き物であり、何ができるのか。人間と人間は、どのような関係を築けるのか。
そういう至上命題への回答などは一切目指さなかったことが、「天気の子」の鬼ポップさの正体だと思います。世界中探しても、こんなに鬼ポップな映画存在しないんじゃない?だって、映画を撮る人は全員「人間を描こう」と大なり小なり思っているから。
「天気の子」で人間を描くのを諦めた実例、腐るほどあります。
例えば、主人公は16歳の家出少年なのですが、なぜ家出をしたのか、最後まで明かされません。
例えば、ヒロインは世界のために自ら犠牲になることを選ぶのですが、その葛藤は一切描かれません。
例えば、「自分たちのエゴのために世界を犠牲にした」2人の共犯者の苦悩と甘美の日々は一切描かれません。
これ、排除した理由も明白なんですよね。人間の苦悩や葛藤を描こうとしたらそれは即「ネガティブな描写」になるから。ネガティブな描写は「楽しくない」から。
「天気の子」は、徹頭徹尾ネガティブな描写を排除していました。登場人物が悩み苦しんでいる様子が全くない。映画の中の5分は「どこを切り取ってもなんとなく楽しい」はずです。これもYoutuberの価値観ですよね。
徹底した「作家性の排除」
更にこの映画のすごいところ、「作家性の排除」が完璧なんですよね。創り手のエゴが全くない。新海誠が「描きたいもの」は何一つとして描いていない。
これ、悪口として言ってるんじゃないですよ。褒めてます。「作家性の排除」が悪く聞こえるのだとしたら「職能としての克己」と言い換えてもいい。
創作物には大きく分けて2つあります。「芸術品」と「商業製品」です。前者は「創作者の内側から湧き出る何かを表現したもの」。後者は「市場調査から得られたニーズを充足するために作られたもの」と説明していいでしょう。
「芸術品」を作るとき、作家性は命です。作家性が宿らない芸術品のことを、人は「駄作」と呼びます。
一方、「商業製品」を作る時は作家性は邪魔です。作家性を捨てられなかったせいで、「作りたいもの」と「作るべきもの」を取り違えるミス、クリエイターなら絶対に一度はやってしまうはずです(僕も何度もやりました)。
「天気の子」は、完璧に「商業製品」を作り切っているんですよね。悪く言えば「作家性の排除」ですが、むしろ商業製品として完璧なものを作っているという意味で「職能としての克己」と呼ぶべきでしょう。
僕がこの映画から職能としての克己を一番感じたのは、終盤でした。
終盤の「自分たちのエゴのために、東京を豪雨のままに3年間放置した主人公とヒロイン。そのせいで沈んでしまった東京」という状況、めちゃくちゃ文学的でよだれが出るほど最高なんですよ。監督だったら、ここを中心に映画を組み立ててしまいたくなるほどに。
東京という世界に誇る大都市を、たった二人のエゴのために崩壊させてしまった。とても肩に背負いきれないだけの大きな罪を、二人だけで分け合っている。
そこには、二人にしか理解できない苦悩があります。「自分たちは生きていていいのだろうか」ともがき苦しみながら、それでもお互いだけを支えにして生きていくことになるでしょう。それは地獄のように厳しい日々であると同時に、蜜のように甘い愛情でもあるはずです。
という、この「相反する地獄と天国」を、作家性のカケラでも持ち合わせている人は絶対に描きたくなるのです。僕が監督ならこれを主題に持ってくるだろうし、他の誰でもそうするでしょう。
新海誠も、本当はこれを描きたかったはずです。彼のデビュー作「ほしのこえ」では「地球から高速で遠ざかっていく少女と、恋仲の少年。少女はウラシマ効果で歳を取らないが、少年は歳を取っていく。二人の時間もズレていくし、距離が離れるほど交信さえも難しくなっていく…」という大変文学的なシチュエーションを主題として余すところなく描いていました。
彼も文学的なシチュエーションを描くのが大好きで、そういう映画を作りたいという作家性はバチバチに持っているのに、それを全て放り投げるという決断。
敵に突っ込んで自爆していった神風特攻隊と同じくらい、職能としての克己を徹底しています。もうカミカゼ監督って呼んだ方がいい。「戦闘機じゃなく、作家性がゼロ式ですね」ってやかましいわ。
気持ちいいシーンだけを抽出してくる
あとはまあこれだよね。気持ちいいシーンの連発。見てるともうめちゃくちゃに気持ちいいの。すごかった。
これはもう映画じゃないよ。シャブ。「見るシャブ」だよ。
心は許してないのに、無条件で気持ちよくされちゃう。「嫌がってても身体は正直だな。これがいいんだろ?」と言わんばかりに畳み掛けてくる気持ちいいシーンで気持ちよくなっちゃう。
これに関しては例を挙げきれないくらいいっぱいあったんですけど、一番象徴的なのは「線路の上を主人公が走るシーン」ですかね。
協力者のバイクが水没する→協力者「行きなさい!」→バイクから飛び降りる主人公、ダッシュで駆け出す→鉄条網の柵を越える(顔に怪我する)→爆走
の流れ、コンテキストを切り離しても感動的で気持ちいいシーンなんですよね。
BGMも、したたる血も、流れる背景も、めちゃくちゃ気持ちいい。映画全く見てない人がこの3分のシーンだけ見ても「なんか分からんけど感動した」って言いそう。すごい。
というか、アニメ映画において、「必死で走るシーン」自体に神性が宿っているんですよ。
クレヨンしんちゃんの映画「オトナ帝国の逆襲」、この記事を読んでる人は当然見てると思います。日本アニメ映画史に名を残す大傑作なんですけど、「オトナ帝国」の中に名シーン「しんちゃんが血まみれになりながら東京タワーの階段を走って登る」があります。これはもう映画自体が最高なので、この名シーンにも爆発的な感動がありました。
あと、細田守監督のアニメ映画「時をかける少女」。これも長回しの走るシーンが印象的ですよね。ともすれば長すぎるくらいの走るシーンだけど、それまでのフリが素晴らしいから感動的なシーンになっていました。「誰もがどこか淡々として大人っぽすぎた世界から一気に青春の爆発へ”駆け出す”」というカタルシスがあるシーンです。
そういう、アニメ映画における「走る」というのは大いなる見せ場で、視聴者の中にはいくつも感動の記憶があるワケです。「必死で走るシーン」には神性が宿っています。
「天気の子」は、その神性をちゃっかり頂いて利用しちゃったんですね。これがすごい。
人間の身体における条件反射って逆走するんですよ。本来「楽しい時に笑う」だったはずなのに「笑ってると楽しくなる」みたいな。
それと一緒で、「感動したシーンは走るシーンだった」じゃなく「走るシーンだから感動した」になっちゃうんですね。しかも今回はかなり露骨で、血を流しながら走ってましたからね。オトナ帝国を意識してるやろ絶対。
他にもまあ「見るシャブ」的な気持ちいいシーンは無限にあったので語るのはやめておきますが、とにかく無理やりにでも感受性揺さぶってやろうという覚悟がすごかった。
物語が何一つ分かってない人でもちょっと心掴まれるでしょうし、なんなら賢めのチンパンジーとかでも心掴まれると思う。
最後まで貫き通せた信念に、偽りなどは何一つない
ということで、勢い任せで5000文字くらい書いちゃったので終わりにしようと思うのですが、最後にもう一度、総論として「僕は新海誠すごいと思った」ということを言っておこうと思います。
「ビジョナリー・カンパニー」という死ぬほど売れたビジネス書があります。この本の中で著者が指摘しているのが、「長年に渡り圧倒的な業績を出す企業の条件は、”ブレないビジョンを持っている”のみ。意外にも、ビジョン自体の良し悪しは全く関係ない。ビジョンが一貫していることだけが条件」ということ。この映画を見ながら僕はそれを思い出しました。
この映画は、「ポップに徹しよう」という圧倒的なビジョンがありました。そしてそれを、完全に一貫させました。僕はその徹底した姿勢をカッコいいと思うし、できあがった作品は”完璧”であると思います。
「天気の子」は、間違いなく”ビジョナリー・フィルム”とも言うべき映画でした。その点で本当にすごい。
最後に、もう一つ似た名言を紹介しておきます。「善でも!悪でも!最後まで貫き通せた信念に、偽りなどは何一つない!!」。
「武装錬金」、3巻より引用。
新海誠は、間違いなく「天気の子」の製作中に信念を貫き通していました。
だからこれは、偽りのない映画なのだと思います。自分の作家性を全て捨て去っていたとしても。
新海誠はこの後、どうするんでしょうか。
ずっとこの路線でやっていくのか、それともどこかで本当に描きたいものを自由に描き始めるのか。
いずれにせよ、彼が「戦い続け」るのは間違いないと思います。陰で見守るキャプテンブラボーばりに、新海誠の戦いを見守っていきたいなと強く思わされた映画体験でした。
以上、終わり。本記事の内容について語りたい人は、僕のTwitterまでどうぞ。僕もまだ語りたいので、割とレスポンスします。
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