慶應義塾大学でエンジニアや研究者を養成する訓練を受けていたのですが、どういうわけか経営者になりました。堀元です。
さて、本日は、公立中学は社会を知る最高の教材だから、行っておくのも悪くないという話です。
僕に子どもはいませんししばらくできる予定もないですが、子どもが生まれたら公立中学進学も視野に入れます。
というか、麻布か筑駒のような超トップレベル私立・国立か、その辺の公立中学のどっちかだろうなと思ってます。それ以外なんてコスパ悪くてやってられるかい。
なぜその2択になるのか?
トップレベル私立は言うまでもなく、「選りすぐりの知性が凝縮された集団で生活できる」というメリットがあります。
受験勉強のできるできないなんてどうでも良いんですけど、少なくとも難関中学受験を突破できるだけの知性を持った子どもしかいない。これは多感な時期の人間形成に非常に面白い影響を与えます。
株式会社サイアメントの瀬尾 拡史氏の講演を聞いたことがあるのですが、彼の原体験は
中1のときにスター・ウォーズを見てCGを作りたくなったけど、数学と物理の高度な知識がないとできなくて諦めそうになった。
しかし運良く、隣の席の男がのちの数学オリンピック最多出場記録保持者になる男で、中学一年生にして既に、大学初等レベルの物理や数学程度ならば修了していた。
放課後毎日、彼に三角比や基本的な微分積分について教わり、中1の夏頃にはCGを作り始めることができた。
だったそうです。ははっ。乾いた笑いしか出ねえや。
ちなみに瀬尾氏は筑駒です。すげえな筑駒。地方公立出身の僕には想像もできねえ世界だ。
まあトップレベル私立の話は置いておいて、公立中学も上記とは全く別の方向で多いにメリットがあります。
社会が見られる、という一点においてです。
今日はそういう話。
入学式で胸ぐら掴まれて、目がチカチカした
僕の両親は比較的お金を稼いでいる方で、何不自由ない生活を送らせてもらいました。
札幌市の中心から二駅、閑静な住宅街で楽しく育ててもらい、堀元少年はすくすく育ちます。
教育方針は基本的に放任で、門限もなければルールもない。好きなだけゲームしたり友達と遊んだりしていました。
地元の小学校は極めて規模が小さく、一学年が40人ちょっと。ほとんどご近所さんみたいな狭い世界でした。
当時、僕に見えている世界の全てはそのご近所さん程度で、世の中のヤバめの側面を全く見ないで過ごしました。箱入り息子ですな。
それが急転直下、地元の公立中学校に入ると色々と見えてきます。広い世界との出会いです。
僕の中学は大変愉快なエピソードがたくさん残っている中学でして、僕が入学する10年ほど前には殺人事件すら起こっていました。
殺人事件と言っても、ケンカがエスカレートして殺したみたいなポップなヤツではなく、近所のババアの店に包丁持って押し込み強盗をし、説教したババアを刺し殺して逃げたみたいな、笑い事でないタイプの殺人でした。
そんな中学校に入学すると、まあやっぱり愉快なことが起こります。
入学式からいきなり、「肩がぶつかったから」という理由で胸ぐらを掴まれたとき、僕は社会を垣間見た気がしました。社会こっわ。
しかもアレですからね。胸ぐら掴んだヤツ、先輩じゃなくて同期ですからね。「えっ、僕たちは今日から一緒にこの学び舎で3年間を過ごす仲間じゃないのかい?」という話です。仲間じゃなかったようです。ヤンキーの論理はよく分かりません。
胸ぐら掴まれたとき、僕は
となりました。とりあえず頑張って謝ってみました。敵意がないことをアピールしてめいいっぱいの笑顔で。
するとヤンキーは「ヘラヘラしてんじゃねえ!!!」と、より怒りました。ヤンキーの論理はよく分かりません。
結局、僕と同じ小学校だった友人Aくんがそのヒートアップ現場に通りかかり、仲裁(というか、ヤンキーをテキトウになだめながら教室に引っ張り込む作業)をしてくれました。
この一連のくだりはほんの1分か2分だったと思いますが、僕は「これが社会か…!」と感じました。大変興味深い経験でした。
公立中学の面白さは「社会の縮図」が生まれること
私立中学に行くと、”大衆”を読み間違う
私立中学の問題点は、かなりの勢いで社会の下層が切り捨てられてしまうこと。
- 受験を突破できる程度の知性がある
- 家の経済状況に問題がない
という2点を兼ね備えた家のご子息しかいない空間になります。この2点、両方持ってるのは厳しいですよ。2点とも兼ね備えている家計って、全体の15%くらいしかいないんじゃないですか。
上位15%くらいの人だけがセレクトされた集団にいると、それが社会だと思い込みます。
そりゃそうです。中学生のガキンチョですから、実際の社会ではもっと下層の人間がウヨウヨしているということを認識できないのは詮無いことです。
上位15%が社会だという勘違いは、どこかで致命傷につながります。特に自分でビジネス興そうなんて思ったら、この辺の”大衆”の読み間違いは痛恨です。
ほとんどの日本人は満足に日本語も読めないし、道筋を追った議論もできない、トラブルの際はダダをこねて解決しようとするという、地獄のような真実を認識できていないと、どこかで大いなるダメージを負います。
僕が見た社会の縮図
僕は公立中学で色々なものを見てきました。今になって思えば大変貴重な経験でした。
象徴的だった経験を3つ、サザエさんの次回予告風に並べると、
- 車をパクるヤンキー
- 勉強ができない人々
- 成人式はキャバ嬢だらけ
でした。以下見てみます。
車をパクるヤンキー
ある日、同じクラスのヤンキーが、そういえば長いこと学校に来てないな、と気づきました。
元々サボりがちではありましたが、今日でもう10日くらい来ていない。どうしたのだろうか、
事情通の同級生に聞くと、車をパクって家庭裁判所に送られたそうです。
鍵が挿しっぱなしの車を見つけて、テンションが上って盗んで、軽くドライブしてから自分の家に停めてそのまま寝ていたところ、すぐに発見されて捕まったとのことでした。
そりゃそうだろ。何食って生きてたらその行動になるんだ。ヤンキーの論理はよく分かりません。
勉強ができない人々
意味が分からないくらい勉強できない人が結構な割合でいました。
この辺、私立中学出身者の皆様は理解できないと思うんですけど、勉強がマジでできないヤツというのが社会の30%くらいを占めます。
この場合の”できない”の想定度合いが、私立中学出身者と、公立中学出身者だと異なるのです。
私立中学出身の皆様が想定する「できない」は、僕の言う「できる」に当たります。
僕の言う「できない」は、ホモ・サピエンスとしての知性が存在するなら当然可能であるはずの知的操作ができないというレベルを指します。
象徴的な思い出話をしましょう。
僕には友人Tくんがいました。彼は決して悪い男ではありません。
ごくごくマジメで、無遅刻無欠席。先生の言うことも聞くし、将来のために勉強も頑張りたい。
ま、大人から見たときに、”手がかからないタイプの子ども”な男です。
しかしまあ彼は、絶望的に勉強ができなかった。努力量が全く成果に結びつかないのです。
Tくんのできなさは、知的創造性がゼロであることに起因していました。
ゼロでした。知的創造性に乏しいとかじゃなくて、ゼロでした。
彼はとにかくマジメなので、覚えろと言われたことを一生懸命覚えます。歴史の授業で、
Aというできごとは、1549年に起こった
Bというできごとは、1568年に起こった
Cというできごとは、1553年に起こった
という3つを覚えろと言われた時、彼は何度も語呂合わせを繰り返しながらどうにかこうにかそれを覚えました。
そういう感じでした。確かに彼は
と聞かれると、ちゃんと答えられるのです。
で、結局テストではこういう問題が出ました。
A,B,Cの3つのできごとを、起こった順番に並び替えろ
これに対して、
と、なってました。いやいやいやお兄さん。あなたが覚えた4桁の数字は何だったんですか。と思いました。
知っている情報(年号)から、求められている回答(順番)を導き出すことができないのです。ホモ・サピエンスかどうか怪しいぞこいつ。
成人式はキャバ嬢だらけ
公立中学の良さは、むしろ卒業後にこそ表出すると言えるかもしれません。成人式が大変愉快です。
成人式の二次会で、中学の同窓会に出たのですが、キャバ嬢だらけでした。
となるくらい、キャバ嬢がいました。
また、そこでの会話で、すすきの(北海道最大の歓楽街)の最新情報や労働環境について教えてもらいました。大変興味深い知見を得ました。
他にもびっくりするくらいの雑多な進路の人々が集まっておりまして
- 高卒で地元の土建会社に就職して、地元の友人ネットワークを広げているという、マイルドヤンキーのステレオタイプみたいなヤツ
- 東京のお嬢様大学に入学するも、一年目で周りから浮きパパ活に走り悠々自適な暮らしをしていた。しかしすぐに捨てられ、今は地元で風俗嬢をしているヤツ
- 地元の国立大学(北海道大学)の医学部に進み、地元の名士への道を進み始めてるヤツ
など、社会の縮図がそこにはありました。育ちの良いヤツの成人式の話はつまらない。どうせ周りは皆大学生だからね。
公立中学に潰されないために
ただねえ、これ、面白がってばかりもいられないんですよね。僕は運良く回避できましたが、
ヤンキーにバリクソに殴られまくりました。毎日いじめられました。自分に自信がなくなりました。あの時の無力感が、何をやっても忘れられません。
みたいなパターンも十分想定されるわけです。ありふれた話です。
こう考えると、僕は本当に運が良かった。ちょっとした衝突事故は何度かあったものの、本格的にヤラレが発生したことは一度もなかったですからね。
上記のような悲惨なヤラレを回避するためには、それなりの体力や処世術が必要になります。
僕はといえば、昔から青白いインテリタイプですから、生き残るための武器は処世術しかないわけですが、当時はそのレベルも全然足りていなかった。
人見知りで交渉事や挨拶は苦手、怖い人にはあんまり近づきたくない、というタイプでした。これはよろしくない。インテリタイプの僕が確実に生き残る方法は、それなりにヤンキーに親しくしてそれなりの関係を築くことしかありません。
これができない僕が生き残ったのはただの幸運でした。もう一度、当時と同じスキルセットで戦えと言われたら本当に嫌です。当時の僕に一つだけアドバイスを送るとしたら、何か格闘技やっとけですね。ホントに危なかった。
僕は自分の子どもを公立中学に入れることも検討しますが、上記のヤラレリスクだけは回避させてあげたいなとも思います。
男の子であれば解決法はシンプルで、格闘技をやらせるという非常に分かりやすい回答があります。が、女の子だとまた話が変わってきそうです。
もっというと、最もポータブルで将来的に役立つスキルは、ヤバめの人と上手くやっていく処世術なので、男の子にせよ女の子にせよ、公立中学に放り込む前にこれを学ばせられたら一番素晴らしい。
しかしこれを体系的に学ばせる方法って恐らく存在してないんですよね。
SHOWROOMの前田さんの著書で、小学生の頃に弾き語りでお金を稼ごうとやっきになり、試行錯誤の末に10万単位の売上を達成するというくだりがありましたが、こういうことをやらせないといけない。
その胆力がある子どもであれば良いんですけど、大概はそう上手くもいかないでしょうしね。
恐らく一番現実的な回答は、「よく分からない大人たちがいっぱい集まっている謎の空間」に子どもをたくさん連れ回して議論に参加させて、そういう場に溶け込む訓練をさせる、とかになると思います。
社会との接点を増やさせる。それもただ増やさせるだけでなく、溶け込まねばならないという圧力の下で増やさせるのがポイントかな。
僕の子どもが中学に入学するまで、少なくともあと12年以上の時を要します。それまでにこの問題については、考えておくことにします。皆さんも何かアドバイスがあったら教えて下さい。