先日、こんな記事が話題になっていました。
タクシーで受験生送ったJR北海道が炎上 地元民も賛否(2017.7.5追記:元のニュース記事は削除されていました)
内容をざっくりまとめると、
センター試験の朝、JR北海道の運行でトラブルが発生。
電車に乗る予定だったセンター試験受験生を、JR北海道の判断でタクシーに乗せて振替輸送。
受験生は無事にセンター試験に間に合った。
みたいな話です。
僕も北海道出身なので覚えがあるんですけど、北海道の交通機関って雪でよくトラブルを起こすんですよね。
こういう話もありふれています。僕が受験生の時も、念のため2時間前に受験会場に着くようにしていました。
さて、JR北海道が良い対応をしたお陰で、受験生は間に合った訳ですが、なぜこれが炎上するのか?
炎上した理由を読んで、僕はびっくりしました。
以下、批判の声を抜粋します。
「受験生だけ特別扱いはおかしい。飛行機が8時間遅れた時だって、タクシー代は出なかったのに…」
だそうです。
皆さんはどう思いますか?
僕は、
と思いました。
「私にもタクシー代出なかったから、受験生にもタクシー代出すな!」という発想、悲しすぎませんかね?
でも、こういう発想しちゃう人、結構いるみたいなんです。
現代において皆、精神状態が限界に達してるんだろうな、と思うんです。
人の幸せを願えない人たち
上の批判は、「私が苦しんだから、あなたも苦しめ」という発想から始まっています。
なんて悲しい発想なんでしょう。
この批判をした人の精神状態は、もう限界なんだと思います。
誰かの幸せを喜ぶことができない、皆が不幸になればいいと思っている人です。
こういう人がいっぱいいるから世の中が生きづらくなってしまうんですよね。
そういえば、ドラえもん「のび太の結婚前夜」に、こんなシーンがありました。
のび太くんを選んだきみの判断は正しかったと思うよ。
あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ。
それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。
ホントにね、人の幸せを願えるのって、”いちばん人間にとってだいじなこと”だと思います。
でも、多くの人は今、そうじゃなくなっちゃってるんですよね。
と、言い出してしまう。
どうしてこんな人が増えてしまうのか、考察してみます。
原因① 表面的な比較を煽られている
人間ってすごく浅はかな生き物で、自分と他人をものすごく表面的に比較してしまうんですよね。
お金を稼いでるだの稼いでないだの、容姿が良いだの悪いだの、すごくどうでもいい指標に振り回されています。
こんな指標、ホントはどうでも良いはずなんです。でも、世間が煽ってくるから気になってしまうんですよね。
インターネットは、「うわっ…私の年収、低すぎ…?」に代表されるような、人の表面的な比較を扇動する言説がものすごく多いです。
こういうのに踊らされると、年収とか学歴とか資格とかの指標を、人と比較することになります。
そして、あろうことか、人に勝っていること=幸せだと考えるようになります。
で、年収で人に勝ちたいから
と、見当違いの祈りを始めます。な、なんて虚しいんだ…!
人に勝っていること=幸せという感覚を持っていると、人の幸せを願えなくなります。勝てなくなっちゃうからね。
でも、幸せってそういうものじゃないですからね。一人が勝てば一人が負ける、みたいな仕組みじゃないですからね。
二人が二人とも最高に幸せになるのが正解ですし自然です。あなたの大好きな恋人が最高に幸せだったら、あなたも最高に幸せでしょ?
現代社会は、あちこちで煽られますが、そんな時は落ち着いて考えてみましょう。
「ホントにそこで勝負する必要あるのか?」と。
結論から言えば、ありません。勝負して勝っても虚しいだけなので、やめましょう
原因② 自分が成功するビジョンが見えなくなっている
バブル期とかは結構特殊で、表面的な比較を煽られていながらも、皆がそれなりに幸せを感じていました。
それは、”自分が成功に近づいている感”があったからです。仕事がいっぱい舞い込んできて、こなせばこなすほどお金になっていく。
自分が成功できそうな感覚があれば、比較を煽られていたとしても、
と、前向きになれたかもしれません。
ところが、現代は成功できそうな感覚を持てないのです。
仕事はそれほど多くなく、ものは溢れかえっている。ガムシャラに頑張っていれば成功できそうな時代ではありません。
結果、自分が頑張って幸せになるというよりは、他の人が不幸になることを願うという結論に達します。
考えれば考えるほど悲しいなあ…。
漫画「鬱ごはん(1)」より抜粋。
施川ユウキ先生はこういう若者の絶望的な心境をコミカルに描き出しています。オススメ。
「皆が幸せになればいい」と思うために
そんな、人の幸せを願えない人が増えている中で、僕は心から「皆が幸せになればいい」と思っています。
別に、僕が聖人君子であるアピールをしたいのではありません。
僕は、”正義とは何か?”という問いに対する答えを、”人々の幸福を最大化する行い”だと捉えています。
ベンサムの功利主義ですね。
正義とは何なんだろう。
僕はよくこれについて考えている。
答えの候補は色々あるけど、僕が一番しっくりくる答えはベンサムの功利主義だ。人類の幸せを最大化するのが正義である、これが一番シンプルでスマートに正義を定義できてると思う。— 堀元 見@あそびカタのプロ (@kenhori2) January 28, 2017
この”正義”を僕は信奉していますし、ある行いが正しいかどうかを確認するために、いつもこれを確認します。
そして、この功利主義を判断基準として持つと、自然に「皆が幸せになればいい」と思えるようになります。
超オススメなので、皆も判断基準として持っておこう!
今回のケースを功利主義で判断
さて、この定義に照らして考えた時、今回のケースは文句なしに善です。
幸福が増える人:受験生たち、(タクシー代をもらった)タクシー会社
幸福が減る人:(タクシー代を負担した)JR北海道
ま、大体こう考えていいでしょう。(※厳密には上の記事を書いた人や読んだ人等様々な人を考慮する必要があります)
この時の、増えた幸福と減った幸福を比較すると、明らかに増えた幸福の方が多いでしょう。
だから、JR北海道の行為は、善だと考えます。
功利主義的に善なものは、僕にとっても善
功利主義的に善なもの(すなわち、人類の幸福の総和を大きくするもの)は、大抵僕の幸せも増加させるんですよ。
基本的に、”個人の幸せ”と”社会の幸せ”は相関があります。
皆がニコニコして幸せな会社だったら、そこに所属する人も幸せじゃないですか?
満員電車で皆がイライラしてたら、乗ってる自分もイライラしてきませんか?
だから、社会の幸せが増えた方が僕にとってもありがたいんですよ。
偽善的なことを言ってるわけじゃなくて、単純に僕もありがたいから「皆が幸せになればいい」と思ってます。
幸せは、ゼロサムゲームじゃない
功利主義の根底にある考え方、それは、
幸せの総和は増やすことができる
ということです。
原因①でも言いましたが、「誰かが幸せになったら自分が不幸になってしまう」という考え方は間違っています。
FX取引みたいなゼロサムゲーム(誰かが得をすればその分誰かが損をする)じゃないんです。
判断基準を功利主義にしよう
さて、そろそろ結論に行きましょう。
冒頭でのび太が言われていたような”人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人”になる一番簡単な方法は、”判断基準を功利主義にすること”です。
超シンプルな理論ですが、こう考えると、すっきりと正義を捉えることができます。
そして心から、”皆が幸せになればいい”と思えます。
まとめ
- 「幸せ=誰かに勝つこと」という発想を捨てよう
- 社会全体が幸せになれば、自分もより幸せになれる
- 判断基準を功利主義にしよう