こんにちは。非日常クリエイターの堀元です。
最近思ってることがあります。
アートで世界観を表現している人達は、めちゃくちゃ面白いです。独自の世界観を持っていたり、とんでもない話が飛び出してきたりします。
アート系の人とサシ飲みするのものすごく楽しい。
本日は「ハプニングバーで人のセックスをただ眺めるのが好き」とか「箱に詰め込まれた人がもがくのが好き」とかマニアックな性癖談義をして、最終的に「人間が檻に入って生活するというアートを実現しよう」という方向で話がまとまった。いい夜。— 堀元 見@あそびカタのプロ (@kenhori2) November 29, 2016
昨日、東京藝大の女の子と飲みました。
色んな言葉が刺さったので、メモしておきます。
人のセックスを見るのが好き
「好き!!」と言った彼女の目はまっすぐで、輝いていて、吸い込まれそうだな、と思いました。こんなとんでもない文脈でうっかり恋に落ちそうでした。
「好き!!」と胸を張って言えるものがあるって素晴らしいです。例えそれが「人のセックスを見ること」であったとしても。
この辺の発想って、すごくアート寄りですよね。「隠されているリアルなものを見たい」という願望。
そりゃヤッちゃうこともあるでしょう
君のことはどうでもよくないから、セックスできない
彼女のセックス観について考察
この時に僕はなんとも言えない気持ちになったのですが、後から考えているとすっきりしました。
結論から言えば、彼女のこのセックス観は非常に現代的であると、思いました。
彼女の「どうでもいい相手とならセックスできる」という状況は、一見するとやや性的倒錯に見えます。
生物的には「この相手と子供を作りたい」と考えた時にセックスするべきであり、どうでもいい相手とならセックスできるという状況は生物学的には性的倒錯だと言えます。
ただし、このセックス観は、現代的な人間関係に酷似しています。
現代的にはこのセックス観は倒錯ではないのかもしれません。それどころか、変容する人間関係に合わせて生じた非常に自然なセックス観なのではないでしょうか。
コミュニケーション量の変化
現代のコミュニケーションは二極化し、どうでもよくない人とのコミュニケーション(密なコミュニケーション)と「どうでも良い人とのコミュニケーション」(疎なコミュニケーション)が共存しています。
一昔前なら、この二つのコミュニケーションは共存していませんでした。
疎なコミュニケーションは、圧倒的に量が少なかったはずです。
顔の見えない相手や、名前の分からない相手とは、たくさんのコミュニケーションは生まれなかった。すなわち、疎なコミュニケーションは少なかったのです。
逆に、家族や恋人、友人といった親しい人とはたくさんのコミュニケーションがありました。すなわち、密なコミュニケーションは多かった。
これは、生き物のあり方として非常に自然です。
一番コミュニケーションを取るべきは、チームとして動いていく地域共同体であり、遠くにいるどこかの誰かではないのです。
身の周りの親しい人とのコミュニケーションは多く、どこかの誰かとのコミュニケーションは少なく。
これが、昔からのコミュニケーションのあり方でした。
ところが、現代になるとこのあり方が大きく変わります。
インターネットにより、「顔も名前も分からないような相手」とのコミュニケーションが激増しました。
僕の場合、twitterで言葉のやりとりをする人たちも、半分以上が会ったことのない人です。
このような疎なコミュニケーションが増加した結果、様々な人間関係に変化が訪れています。
人間関係の変容
典型的なのは、「遊びに行く相手を直接誘わない」という現象です。
皆さんもやりますでしょうか?SNS上で、「誰か遊びませんか?」と呼びかける行為。
明日の夜、「地味な仮装限定ハロウィン」行こうと思うんですけど誰か一緒に行きません?
「スタバの店員」とか「工事現場の人」とかそういう地味な仮装をする会になります。リンクは去年のレポート。https://t.co/B3CIFE4kdV— 堀元 見@あそびカタのプロ (@kenhori2) October 29, 2016
この現象は非常に面白い。
これは言うなれば、SNS上で普段からコミュニケーションを取っている全ての人への誘いです。
前述の通り、この誘いを受ける人の中には、疎なコミュニケーションの人(ほぼ他人)も非常に多くなっています。
SNS上で遊ぶ相手を募集することは、この疎なコミュニケーションの人の中から遊ぶ相手を探し出す側面を持ちます。
お分かり頂けたでしょうか?
遊び相手を探す行動の人間関係さえも変化しているのです。
以前なら、
と考えた上で、
と決めていたはずです。
そして、誘いの回数は「密なコミュニケーション」の相手ほど多かったはずです。何しろ普段のコミュニケーションの量が圧倒的なのですから、誘いも密なコミュニケーションの中から生まれるはずです。
遊ぶ相手は当然、密なコミュニケーションの中から選ばれます。
親密な人とほど多く遊びに行くことになります。
もう一度言いましょう。コミュニケーション量の変化により、人間関係も変化しています。
元々、「遊び相手を探す」という行為の対象は、親密な人が中心でした。しかし現代に入ってからは、疎なコミュニケーションの相手(ほぼ他人)が台頭してきました。
セックス観も同様の変化をしたのではないか?
ここまでで、現代における人間関係の二つの側面を見ました。
- 親密ではない相手とのコミュニケーション(疎なコミュニケーション)量が激増していること
- 伴って、遊びに行く相手も疎なコミュニケーションの中から選択されること
これと同様の現象がセックスにも生じているとしたら、どうでしょう?
いわゆる「オフパコ」と言われる行為があります。
ネット上でゆるく繋がっていた男女が、現実で(オフラインで)会って、セックスをする行為です。
相手の本名も素性も分からないまま行為が終わり、お互い分かれていく。そんな流れが珍しくないようです。
これはまさに、今までに見た2つの側面がそのまま、セックスにも適用されていることを示しています。
このような人間関係の変化が生じた結果どうなるのかといえば、「人間関係に対する感覚」が変わっていきます。
変わってきた例を挙げましょう。高度経済成長期くらいまでの日本では、
と言われていたようです。
が、今はそう思っている人が日本にどれだけいるでしょうか?
時代が変わり、人間関係が変われば、それに伴って「人間関係への感覚」が変わっていきます。
話を本筋に戻します。
「セックスや遊びの相手」をSNSの中から、ひいては関係性の希薄な他人の中から探すことが当たり前になると、「それが自然」という感覚になります。
彼女のセックス観は、きっとこの感覚なのでしょう。
圧倒的にコミュニケーション量の多い「極限に疎」または「極限に密」の中からセックスの相手を見つけだすことには違和感は無いけれど、中間層から相手を見つけ出すのは違和感がある。
僕はきっと、この真ん中辺りなのでしょう。
断っておきますが、彼女はオフパコをしているわけでも無ければ、SNSでセックスの相手を募集している訳ではありません。
ただし、時代が移り変わることにより生じる「感覚の変化」は、現代人全てを包み込みます。
疎なコミュニケーションと、密なコミュニケーションの中から、遊びやセックスをすること。
現代になってそれが当たり前になりつつあるし、「それが自然だ」と感じる感覚が現代人に生まれつつあります。
そう考えれば、彼女のセックス観は性的倒錯なのでは決してなく、現代人のコミュニケーションを反映した自然な感覚なのかもしれません。
セックス観を含む人間関係の感覚って時代によって変わっていきます。
そして、遊びやセックスの相手は、確率的にコミュニケーション量が多い相手から選択されると考えれば、「自然な」遊び相手やセックス相手は、コミュニケーション量によって規定されるのかもしれないな、と思いました。
まとめ
ひょんなことから考えてしまいましたが、人間関係の感覚って非常に面白いテーマですよね。
人間関係の感覚は、これからもきっと変化し続けるのでしょう。僕も考え続けたい。
変化する時代楽しい!