大学一年生の春、地元である札幌から東京に出てきて一ヶ月が経ち、一人暮らしにも少し慣れてきた時期。
僕は六畳のワンルームで、集中して見るでもなく、テレビをつけていた。別の作業をしながら、音声だけを聞き流す。
すると、「小樽商科大学の体育会学生が、お酒を一気飲みして死んだ」というニュースが聞こえてきた。
おや、と思い、ニュースに目を寄せる。
小樽は、僕の地元札幌の隣町だ。
全国ネットでその名を聞くことは少ないが、小樽商科大学は地元では割と有名な文系大学で、友人も何人か進学している。
だから、「おやおや、物騒なニュースだなあ」とか、「進学した友人たちを今度このネタでイジってやろう」とか、そんなことを思った。
それから、月日はバタバタと過ぎ去り、夏になった。
大学生になって初めての夏休み、僕は地元札幌に帰ってきた。
地元の友人に会う。久しぶりに会う友人とは積もる話が尽きない。次から次へと、話題が飛び出してきた。
そんな中で、ふと思い出して「小樽商科大学の体育会で、人が死んだよな」ということを彼に言ってみた。数ヶ月ずっと忘れていたあのニュースのことを、口に出した。
彼は、さして感情の動かぬ様子で、しれっと返答する。
「ああ、あれ、キドくんだよ」
僕は、ギョッとした。
「キドくんって、あの、俺たちと同じ塾だったヤツ?」
「そう。あのキドくん」
驚いてしまう。
「小樽商科大学で体育会の一年生が酒を飲んで死んだ」というニュースは【誰か】の話だったのに、急に実感を伴って、【あの人】の話になってしまった。
「うわー、すげえな。ビックリだ」
「な。オレも聞いたとき、めちゃくちゃビックリしたよ」
と、その程度で会話は終了した。
きっと、キドくんと親しい友人であれば、もっとしんみりと思い出を話したり、事件の所見を述べたりできたのだろう。
僕らはそうじゃなかった。名字に「くん」付けをする程度の親しさでしかない。中学3年生の時、1年間同じ塾の同じクラスにいたけれど、喋った累計時間はせいぜい10分というところだろう。
だから、特別深い思い出を語るワケでもない。二言三言話せば、僕らがキドくんについて語れる全ては出尽くしてしまった。
それからまた話題は別のテーマに移り、やがて解散の時間が来た。
友人と別れたあと、僕はぼんやり、キドくんの死について考えていた。
「同い年って、死ぬんだな」というのが、第一に思うことだった。
同い年の知人の訃報を聞いたのは、初めての経験で。
それまでは何となく、若い自分たちには無限の時間があり、無限の強さがあると思っていた。
僕たちは死ぬのだ、と、初めて強く思ったできごとだった。
キドくんについての思い出を記憶から掘り起こしてみる。
彼は、塾の自習室にあった、ローラーがついた事務椅子で遊ぶのが好きだった。
勢いをつけて走り出して、慣性で廊下を走り、壁にぶつかる直前で停止するというチキンレースを仲間と数人でよくやっていた。
僕は彼とは違うグループだったからいつも横目で見るだけだったけど、やたら楽しそうに盛り上がっていたのをよく覚えている。(そして、先生にしこたま注意されていたのもよく覚えている)
そうだ。一度だけ、そのローラー椅子の遊びに混ぜてもらったことがあった。
あまりにも楽しそうだから、「一回やらせてくれよ」と頼んで、僕も椅子に乗って走った。
その時に、コツを教えてくれたのはキドくんだったはずだ。「あそこまで全力で走って、あとは慣性でいくといい感じになるぞ」とかなんとか、教えてくれた。
その思い出話をする時間は、永遠に失われてしまった。
「あの時、事務椅子ゲームのコツをお前が教えてくれたよな」という話をキドくんにする機会は、もう二度とないのだ。
それは、悲しいことだなと思う。
僕は正直、キドくんと特に仲が良かったワケでもない。彼が生きていようが死んでいようが、僕の人生に何ら影響を及ぼさないだろう。
それでも、生きていて欲しかった。
いつかどこかで偶然会ったときに、「よう久しぶり」って、一分だけ話せる可能性が、残っていて欲しかった。
立ち話で少しだけ事務椅子ゲームの思い出話をして、「じゃあ」って別れられる可能性が、残っていて欲しかった。
仮に今、キドくんが生きていたとしても、一生会わずに終わる可能性が高い。
事務椅子ゲームの思い出話は、どっちにしろ、一生できなかっただろう。
それでも、「いつか」が存在することは、素敵なことだ。
キドくんが生きていてくれれば、「いつかどこかの街頭で彼と会ったときに、事務椅子ゲームの話をしよう」と思うことができる。
人との関係は、「いつか」の積み重ねでできている。
もう会わないかもしれないけど、いつか、どこかでバッタリ会えたらいいな。
ケンカ別れしちゃったけど、いつか、あの人とまた笑いあえたらいいな
実現しなくてもいい。強く渇望しているワケじゃない。そんなぼんやりとした「いつか」をたくさん抱えながら、僕たちは人間関係をアップデートしていく。
ぼんやりした「いつか」は、僕らが生きていく上での大きな糧になっていると思う。
だから、知人が死ぬことは悲しいことだ。
死なないで欲しい。生きていて欲しい。いつかどこかでバッタリ出会った時、言葉を交わせる可能性が、消えないでほしい。
誰かが生きなきゃいけない理由って、案外そんなもんなんじゃないか。
今までに関わりを持った何千という人たちに、「いつか」を残しておくために、僕らは生きていくんじゃないか。
僕は頑張って生きていくから、あなたも頑張って生きて欲しい。
「いつか会えるかもしれないあなた」が維持されることは、僕の人生の糧になるから。
代わりに僕も、あなたにとっての「いつか会えるかもしれない僕」を維持していくからさ。
いつか、またどこかで会った時は、一言交わしましょう。
そう思い続けるために僕たちは、明日を生きなきゃならない。