おととい、オンラインサロンの問題点をえぐる記事を書いた。
この記事が反響を頂き、1万PVを越え、フォロワーも200人以上増えた。
シビれる名フレーズが1スクロールに1回は出てくるからオススメ。
僕がサロンやらずに、部室として無料でやろうと思ってる理由が全てここにあるよ。
精神安定剤としてのオンラインサロンの話。あるいは普遍的なサービス業の話 https://t.co/GKlLfDj3jG @kenhori2より
— 館主🏠かぷり鼓 (@eye_of_kaprico) December 15, 2018
ホリケン、ほんま辛辣で草
https://t.co/pBWD6VEG5J pic.twitter.com/Ph4svSEM0r
— やうちはるき(えらいてんちょう)★ (@eraitencho) December 13, 2018
そのこと自体はとても嬉しいのだけど、僕は企画屋であり、決して「社会問題を論じる人」でありたくはないのだ。
尊敬すべき漫画家、久米田康治先生もそんなことを言っていた。
漫画家の久米田康治先生が「漫画家は"社会派"と呼ばれるようになったら終わり」と言っていたのですが、僕も大体そういうつもりで暮らしています。
【オンラインサロン問題に切り込む】とかはたまにしかやらないでおこう。コウメ太夫についての文章とかを書くことを忘れずにいよう。
— 堀元 見@企画屋 (@kenhori2) December 14, 2018
ということで、200人以上増えたフォロワーを減らしにかかろうと思い、常々思っていたこの内容を、今日は書く。
僕は社会派ではなく、ひねくれた視点を持ったイチ企画屋だ。社会も論じるが、変な切り口のものを作るのが本業である。そこのところをご理解の上、今後ともお付き合いいただきたい。
「また あした」はフェラチオの歌
最近あまり評判を聞かないが、Every little thing(以下ELT)といえば、割と国民的なアーティストだったと思う。
「あいのり」の主題歌などを歌っていることで有名だ。
僕が中学生くらいの頃には、色んな場所でよく流れていた。
さて、このELTの代表曲に「また あした」という曲がある。
この曲、CMにも起用されている有名な曲なのだが、僕はこれを聞く度に「これ、フェラチオの歌だよね?」と思ってしまう。
いや、ホントに申し訳ないんだけど、怒られそうなんだけど、そう聞こえてしまうのだ。
具体的には、この部分。2番のAメロ。
「あんまり得意じゃなくて」とうつむきながらも、
君はくれた 僕にだけ 愛の心地
ELT「また あした」より引用
ここ、僕は何回聞いても、フェラチオの話にしか思えない。
というか、逆に聞こう。それ以外ならこれは何の話なのか?もっと説得力のある答えがあったらぜひ教えて欲しい。
ちなみに、「またあした 歌詞 意味」で検索してみたところ、Yahoo知恵袋でこの部分の意味を問うている質問があった。
ベストアンサーを、引用しよう。
相手のことを愛していると表現するのが、「あまり得意じゃなくて」という意味でしょう
それでも、君の気持ちは伝わっているよ、一緒にいるのが愛しい時間と感じるよ、と「僕」は思っているという歌だと考えます
「Yahoo!知恵袋」より引用
どうだろう。このピンとこなさ。
このピンとこない回答よりも、「フェラチオの歌である」という回答の方がよほど腑に落ちるのではないだろうか。
というか、学問的な原則でいっても、「フェラチオの歌」説の方を信じるべきである。
なぜなら、学問上の指針に「オッカムの剃刀」という原則があるからだ。以下、ウィキペディアより引用。
オッカムの剃刀(オッカムのかみそり、英: Occam’s razor、Ockham’s razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする指針。もともとスコラ哲学にあり、14世紀の哲学者・神学者のオッカムが多用したことで有名になった。
すごく簡単に言うと「同じ内容を説明するなら、複雑な仮説よりも単純な仮説の方を信じるべきだ」という話だ。
ということで、このオッカムの剃刀にしたがっても、前述のYahoo知恵袋の回答よりも「フェラチオの歌」説の方を信じるべきだということが分かる。
また、実は上記のYahoo知恵袋の回答の一つでも、同様の指摘がなされている。
ナイトライフのことですよね
「Yahoo!知恵袋」より引用
こちらの回答は、驚くほど華麗にスルーされていた。オッカムの剃刀で言えばこちらのほうがいい説明だと思うのだが、世の中は難しい。
以上、僕の主張を聞いてしまった皆さんも、もうフェラチオの歌にしか聞こえなくなったと思う。「フェラチオの歌の呪い」である。
申し訳ない。あなたの頭に呪いを植え付けてしまった。一度この事実に気づいてしまった以上、もうあなたはこの曲を聞く度に「ああ、フェラチオの歌ね」と思うことになる。
ただ、僕は15歳の時にこの事実に気づいてから「ああ、フェラチオの歌ね」と10年以上思い続けて来たし、他の被害者を出してしまっては申し訳ないと思って、ずっと自分の心にとどめ続けてきた。
最近は街を歩いていてELTの曲を耳にする機会も減ったし、もう打ち明けてもいいよなと思い、筆を取った。今、時効を迎えた指名手配犯のような心持ちだ。
ちなみに余談だが、「フェラチオの歌だ」と思いながら聞くようになると、このあたりも怪しく聞こえるようになる。
もうじきね 巡りあえて
2つ目になる 冬が来るから
寒がりな君に僕が
してあげられるコトが あるといいなぁ〜
ELT「また あした」より引用
これも、夜の話の雰囲気を感じ始めてしまう。「コト」とか「いいなぁ〜」とか、微妙な表記も作為を感じるのだ。
似た呪い「スピッツはセックスの隠喩の名手」
以上の内容で、本日のメインの主張は終わりなのだが、合わせてこの呪いの話もさせて欲しい。
10年くらい前に、2ちゃんねるで「スピッツはセックスの隠喩の名手。ありとあらゆる言葉でセックスを例えている」という言説を目にした。
これはホントウに迷惑な話で、この言説を目にして以来、僕はスピッツの曲が気になってしかたない。
聞く曲聞く曲、全部にセックスの隠喩が出てくるように感じるのだ。呪いだと思う。
例えば、
でもさ 君は運命の人だから 強く手を握るよ
ここにいるのは 優しいだけじゃなく 偉大な獣
スピッツ「運命の人」より引用
これは完全にセックスの隠喩に見えるし、
冷えた僕の手が君の首すじに
噛みついて弾けた朝
スピッツ「青い車」より引用
これも、
溢れそうだよ タマシイ色の水 君と海になる
スピッツ「歌ウサギ」より引用
これもセックスの隠喩に見える。
なんなら、代表曲のサビも怪しくなってしまう。
誰も触れない 二人だけの国 君の手を離さぬように
大きな力で 空に浮かべたら ルララ 宇宙の風に乗る
スピッツ「ロビンソン」より引用
これも、元々なんとも思ってなかったのに、意識してからは「ルララ(意味深)」と思うようになってしまった。
スピッツ、割と好きだったのに、この「セックスの隠喩」呪いのせいで、どの曲を聞いてても
と気になって全然集中できない。
唯一安心して聞ける曲が「おっぱい」しかないという逆転現象が発生する。
この曲には隠喩がないからすごい安心感だ。
君のおっぱいは世界一 君のおっぱいは世界一
もうこれ以上の 生きることの喜びなんか要らない
スピッツ「おっぱい」より引用
そんなワケで、僕はまともにスピッツの歌に集中できない呪いにかかっており、10年ほどこの呪いに苦しめられてきた。
その鬱憤を晴らすべく、どさくさに紛れてこの呪いの話もしてしまった。
10年くらい前に2ちゃんねるに書き込んで「セックスの隠喩」の呪いを作ったヤツ、どこの誰かは知らないが、この文章をもし読んでいたら、ぜひ反省して欲しい。僕のTwitterまで連絡をください。ご飯おごってください。
また、恐らくこの記事を読んだせいでこの呪いに苦しむ人もいるだろうが、ぜひ僕を恨むのではなく、最初にこの呪いを作ったヤツを恨んで欲しい。見つけ出して一緒にご飯おごってもらおう。