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B!

「尊敬できない大人もいる」と教えてくれたのは、引き算の授業だった。

エッセイ

先生の言うことは、正しい。

 

幼い子どもは、妄信的にそう思っている。

あなたがこの思い込みから解放されたのは、何歳の頃だろう。

 

僕ははっきり覚えている。7歳、小学1年生のときだ。

当時僕のクラスの担任をしていた先生は、若かった。歳は20代半ば、初めての担任だと言っていた。当時の彼はきっと、今の僕と同じか少し歳下くらいだろう。

僕は、一回の引き算の授業を通して、彼のことを尊敬する気持ちを全て失い、同時に、「先生だからと言って無条件に尊敬する必要はない」と学んだ。

今日は、その話をしよう。

 

10は何でできているゲーム

夏のはじまりだったように思う。小学校に入学してから3ヶ月ほどが立った頃だ。4月に「数の数え方」からはじまった算数の授業は「足し算」を終えて、「引き算」に入ろうとしていた。

引き算の導入として、担任の先生が始めたのは「10は何でできているゲーム」だった。

先生が「10は、4と何でできている?」と生徒を指名して聞く。指名された生徒は、「6です!」と答える。そんなゲームだった。

今振り返ってみれば、このゲームは教育効果としてとても良い。ゲーム形式で楽しく、それでいて効果的に引き算の授業に入れる良い導入だと思う。

 

ゲーム自体はよかったのだが、この先生は、トラブル時の対応がよくなかった

 

ゲームを始めたてで、みんながまだ慣れていないとき、指名はゆっくり進んだ。

みんなが慣れてきたら、徐々にテンポが上がってきた。

ほとんどの生徒はサクサクとテンポに合わせて答えるが、要領の悪い生徒は詰まってしまう。

そして、毎回そのテンポを止めてしまう子がいた。加藤さんという、髪の長い女の子だった。よく覚えている。入学後最初の席替えで、僕の隣に来た子だったから。

 

その日も、加藤さんは僕の隣に座っていた。自分がテンポを止めてしまう度に申し訳なさそうな顔をして、すぐに答えられない自分の要領の悪さに苦しんでいるようだった。

ゲームをちょっと止めたからといって別にどうということはないのだが、サクサク進んでいる方が教室全体としては盛り上がる。

一周、クラス全体を指名し終わったら、二周目、三周目とゲームが続いていく。加藤さんは、毎回答えに窮してしまった。その度に、先生はゆっくり考えるようにヒントを出した。

 

四周目の加藤さんの番、先生は毎回詰まる加藤さんに配慮して、「10は、0と何でできている?」と聞いた。

これなら計算を必要としない分平易だ、とも言えるのかもしれないが、数の概念を習得して間もない要領の悪い生徒にとっては、難易度は同じだ。加藤さんは結局また、答えに窮した。

うつむく加藤さん。先生は、「ほら、ゼロってことは、何もないってことだから、10は……」と、懸命にヒントを出す。

その時、テンポを乱されて退屈したのだろう、加藤さんの一つ後ろの席に座っていた女の子がポツリと言った。

 

え〜……簡単なのに〜……

 

あまり、褒められた言動ではない。

「同級生の無能を非難する」というニュアンスが宿る発言だ。人のできないことを笑う、とも言えるかもしれない。

ただし、小学生ゆえの無邪気さ、とも言える。よくないけれど、社交術を身に着けていない小学生にとっては多少はしかたないかなとも思える発言だ。

 

これに対して先生はどう反応するのかな、と思って事態を見ていた僕は、驚愕することになった。

 

彼女の発言を聞いた先生は大いに怒り、彼女に向かってこう言った。

 

おい!100は!!100は63と何でできているか言ってみろ!!

 

これを言われた彼女はたまったものではない。引き算という概念すら習得していないのに、二桁の引き算はとてもできない。

先生の怒りの剣幕と相まって、彼女は泣き出してしまった。

そんな泣き出す彼女を見て、先生は勝ち誇った顔をした。その後の発言を、僕は一生忘れないと思う。

 

「ツラい気持ちが分かったか?今お前がしたことは、こういうことだからな!!」

 

言ったあと、「ふん」とでも言いたげな様子で、先生は授業に戻った。少しの間、彼女は泣き続けたままだった。

彼女が泣く原因を作ってしまった加藤さんは、困惑と罪悪感が混ざったなんとも言えない表情をしていたのを覚えている。

 

「この人は、身体の大きな子どもだ」

僕はこの一連の騒動を見て愕然とした。

当時の僕の語彙にその言葉が存在していたかどうかは定かではないが、僕が、20歳近く年上の担任教師に抱いた感覚は「大人げない」だった。

先生は、僕以上に子どもなのではないかと思った。

 

たしかに、泣いてしまった彼女の言動は、褒められたものではなかっただろう。

放っておけば、彼女はできない人にヤジを飛ばす人間になってしまうかもしれない。だから叱っておこう、という判断までは理解できる。

だが、そのやり方に、なぜ「100は、63と何でできている」を選んでしまったのだろう。

 

これは、子どものやり方だ。教育者のやり方ではない。

 

教育者なら、彼女を教え導くべきだ。

彼女の、少しばかり不用意な発言に対して、「それはよくないよ」と声をかけてあげるべきだ。

人間には得意なことと不得意なことがある。今は偶然、加藤さんが苦手で、キミが得意な算数をやっているから「簡単なのに」と言いたくなるかもしれない。

でもね、別のタイミングでは加藤さんがキミに同じことを思うかもしれないよ。そのとき、簡単なのに、って、ちょっとバカにした感じで言われたら、嫌だろ?

と、言ってあげるべきだ。

 

先生は、そうしなかった。

圧倒的な力の差を誇示し、生徒を打ちのめし、ショックの中にいる生徒に「今お前がしたのはこういうことだ」と告げる。

これは、教育ではない。私刑(リンチ)だ。

年長者としての高みから、生徒に気づきを与え、成長させる行為ではない。生徒と同じレベルまで降りてきてしまっている。「悪いヤツだから、成敗してやる!」というレベルになっている。

美しく気高い教育者ではない。この上なく醜悪な暴君だ。

 

そりゃあ、ホントウに人の痛みを分からないヤツなら、最後の最後の荒療治として、「被害者と同じ目に合ってもらう」ということを考えてもいいかもしれない。

でも、吊るし上げられた彼女はそうじゃなかった。すこしズケズケとものを言うきらいはあるけれど、マジメで大人の言うことをよく聞く良い子だった。

ちゃんと、一つ一つ悟らせてあげれば、彼女は成長しただろう。身につけていなかった社交術を身につける絶好の機会になり、人の気持ちに思いを馳せる絶好の機会になっただろう。

彼はそんな教育の機会を破壊し、ただ彼女を晒し上げてしまった。彼女のショックの様子を見るに、とても効果的な教育だったとは思えない。彼女がこのことから学んだのは社交術や人の気持ちを思いやることでなく、せいぜい「口はわざわいのもと」程度のことだろう。

 

ああ、この人は尊敬しなくていいんだ

この、教育者らしからぬ振る舞いを見て、僕は「ああ、この人は尊敬しなくていいんだ」と思った。

それ以降、僕はこの先生に一切なつかなかった。

 

小学生は基本的に単純で、若い先生は低学年の生徒からは圧倒的な人気を獲得する傾向にある。彼も大いに人気があった。

吊るし上げられた彼女においても例外ではなく、泣いてしまった算数の翌日には、もう先生のところに楽しそうに話しかけに行っていた。

そんな中にあって、一人だけ彼に一切懐かない僕は、よほど異様な存在だったのだろう。彼は担任が変わるまでの一年半、僕の扱いに困っているようだった。

 

***

 

今になってみれば、先生の大変な立場も想像がつく。

大学を出てほんの数年の若手、初めて持った担任。慣れないことばかりだっただろう。

慣れない彼は彼なりにいい仕事をしようと、一生懸命連絡ノートを書いたり、親御さんとの交流をはかったりしていた。教材だって、頑張って研究していたのだろう。

そんな忙しく疲れる日々の中で、不用意な言葉が口をついてしまうこともあるだろう。

だから、あれほど彼を軽蔑しなくてもよかった。扱いに困らせてしまって、申し訳なかったと思う。

 

だが、それでも、教育者として、越えてはならない一線があると思う。

当時の彼の境遇を理解し、その業務の大変さを理解した今でも正直、僕は彼のことを尊敬していない。

僕なら、あの「100は63と何でできているか」は、絶対に言わない自信がある。

たとえどんなに徹夜が続いていても、どんなに思考能力が鈍っていても。

 

立派な大人も、しょうもない大人もいる。

引き算事件以来、僕は、大人や先生を無条件に尊敬するのをやめた。

小学1年生の僕に「大人げない」と思われてしまうしょうもない大人もいるし、ホントウに立派な大人もいる。そう学んだ。

幸い、僕の両親はかなり「立派な大人」だったと思う。お陰で、大人全般に失望することはなく、「しょうもない大人も立派な大人もいるんだなあ」という考え方をすぐに身につけられた。

そして僕は、それからの人生でも何人もの「立派な大人」に出会ってきた。もちろん、それ以上にしょうもない大人にも出会ってきたけれど。

 

「立派な大人も、しょうもない大人もいるから、尊敬するかどうかは自分の頭で判断しよう」

誰もが、人生のどこかでたどり着くこの真理に、僕は引き算事件で、かなり早い内にたどり着いた。

そういう意味で、僕にとってのあの引き算の授業は、大いなる教育効果を発揮したと言えるかもしれない。教育というのはホントウに難しいものだ。

 

以上、今日はただの思い出話を書きたくなったから書いてみただけで、それ以上でもそれ以下でもない。

それでも、無理やりに教訓を導こうとすると、以下のようになると思う。

 

小学校の教師は精神年齢が小学生に近づく理論

僕は引き算事件の経験から、「小学校の教師は精神年齢が小学生に近づく理論」という理論を唱えている。いや、別に名前は何でもいいのでもっと短くして「小学校教師低年齢化理論」とかでもいいんだけど、とにかくそういう理論を唱えている。

今回の事例の先生も、この「小学校教師低年齢化理論」の犠牲者なのではないかなと思う。

 

小学校の教師は、業務時間の多くを小学生と過ごす。小学生とコミュニケーションを取ることが大きな仕事だ。

そして小学生とひたすらコミュニケーションを取っていると、思考様式が少し引っ張られて、精神が幼稚化してくる。ほんの少しずつだけど、これは確かにあると思う。

しかも、最も多くの時間を一緒に過ごす大人のコミュニティも、「小学校の教師」だ。周りの人も少しずつ幼稚化しているので、幼稚化を食い止めて精神を引き上げてくれる大人がいない。

更に悪いことに、小学校の担任は「王」だ。常に同じ生徒たちを率いて、自分が絶対の権力者として振る舞うことを許されている。極めて暴君になりやすいし、暴君は批判に晒されないので、深く内省することもない。精神が低年齢化してもしかたない環境だと思う。

だから、今回取り上げたような醜悪な、あまりにも醜悪な事例が生まれるのだと思っている。彼は教師になって2〜3年、担任を持って3ヶ月だったが、既に精神年齢は引き下げられていたと思う。

 

先に、【僕は「100は63と何でできているか」と言わない自信がある】と書いた。これは真実だ。

だが、「3年間みっちり小学校教師として勤務したあとに」という条件が付くと、途端に自信がなくなる。

僕の精神年齢も低年齢化するのではないだろうか、暴君になってしまっているのではないか、

そう考えると、僕もあの先生と同じ対応を取ってしまう可能性が出てくる。

恐ろしいことだ。元々は教育者だった人が小学校教師をやることによって、教育者ではなくなってしまうのだから。

 

「ふつうの職場で勤務させる」という解決

教師の低年齢化を避けるためには「長期的に外部機関で勤務させればよい」という意見が存在する。僕も同意見だ。

「何年か勤務を終えた教師を、外部の民間企業や自治体で、普通の務め人として勤務させる」というアイデアはだいぶ前から存在するのに、未だほとんど実現されていないようだ。

このアイデアの出典については記憶が定かでない。調べれば論文か何か出てくると思うが、面倒だから調べない。興味がある人は探してみて欲しい

 

3年に一度とかのスパンで、丸一年くらい他の「ふつうの」職場で勤務するだけで、この「低年齢化」には大きく歯止めがかかると思う。

中学や高校はともかく、小学校教師についてはこういった制度を、一刻も早く導入すべきではないだろうか。

小学校教師の低年齢化事例については枚挙にいとまがない。僕の「引き算事件」と似たような記憶をお持ちの方も多いと思う。

 

僕たちに続く「小学校教師低年齢化」の犠牲者を出さないために、お仕着せの「外部研修」ではない、ホンモノの制度の確立が大いに待たれるところである。

 

小学校教師の腐敗のニュースを聞くたびに、あの日の加藤さんの、困惑と罪悪感の混じった表情を思い出す。

author
Ken Horimoto
堀元 見

仕事は「新しいあそびを作ること」。異常なイベントを企画したり異常なWEBサービスを作ったりしながら生計を立てています。

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