僕は結構行動基準を「面白さ」で決めている。
新卒からいきなりフリーランスになったのも、それが一番面白かったからだ。
そして、面白いのが善で、面白くないことこそが悪だ、と思う。
ところで、「プロジェクトX」というNHKの番組があった。僕はあの番組がたいへん好きで、しょっちゅう見ては心を高ぶらせていた。
こんなにも面白い番組だったのに、終わった。その大きな理由として「やらせ」が挙げられている。
今日は、「やらせ」について書いてみようと思う。
「やらせ」?別によくね?
早速だけれど、僕個人としては、別によくね?と思ってしまう。
プロジェクトXの「やらせ」が問題になった時期をもう少し詳しく調べてみる。それは、番組の視聴率が低迷していた頃のことだ。
番組がマンネリ化していく中で、事実から離れた過剰な表現が目立ってしまったのだ。
特に問題になったのは、「ファイト!町工場に捧げる日本一の歌!」という回の表現である。
「町工場を讃える歌を歌う合唱部が日本一になる」という旨の回で、当時の高校の状況を説明するために、「荒れ果てた高校の合唱部が〜〜」という表現が用いられた。
しかし実際にはそれほど荒れていたわけではなく、制作側がインパクトを与えるために一部の実態をオーバーに盛り込んだらしい。これが問題になった。
もう一度言おう。「別によくね?」と思ってしまう。
偏向報道は多いに問題だと思う。間違った情報を振りまいてしまうことは社会にとって悪だ。
だけど、プロジェクトXは別にその学校の荒れ方を表現したかったわけではない。
プロジェクトXは報道をしたり情報を伝えるための番組ではなく、情熱を持つ人々のすごさとドラマを描くドキュメンタリーである。したがって、学校の情報が正確に伝わっていなくても構わないと思う。
「すごく荒れた学校だった」という表現に対して、OBは違和感を覚えることもあるだろう。
でもそれは学校のイメージダウンにつながるものではない(何しろ、合唱部が良い結果を出すドラマ、という文脈で作られているのだから)。
にも関わらず、「事実と異なっているから」という理由で叩かれてしまった。
事実と異なっているのは、なんら構わないのではないか。
と、僕は思う。
事実と異なる話なんていくらでもある
よく似た現象として、芸人がエピソードトークをする際に、話を「盛る」ということがある。
実際には20cmくらいであったにも関わらず、「40cmくらいのトカゲが出てきたんですよ!」という話をする。
これは大なり小なり誰もが行っていることだろう。芸人に限らず、私たちの誰もが。
エピソードを話す上では、正確さよりも面白さを重視しているのだ。
これは、「エピソードトーク」が「面白さ」のために存在するからだ。情報を伝えることが目的ではなく、面白さを与えることがメインだ。
したがって、話を盛ることで「正確さ」が損なわれるのは問題にならない。
僕は、「プロジェクトX」は「面白さ」のために存在すると思っている。だから、話を盛るのは問題ないと思う。正確さが損なわれたとしても。
正確なものは大抵面白くない
面白い番組にするには多少正確さが損なわれるのは仕方ないのだ。教科書が面白くないのは正確だからだと思う。
世の中はみんな「面白さ」を求めているのにも関わらず、「嘘つきは悪だ」という薄っぺらい道徳観でコンテンツを評価してしまう。
したがって「面白くて正確」を求めるのだけれど、それは無理だ。面白さと正確さは二律背反なのだから。
「面白さ」がウリのコンテンツには、「正確性」を求めるべきではない。
つまらないよりは、嘘つきであるべきだ。
積極的に嘘つきを肯定しよう。面白いコンテンツが「不正確」という理由で消されてしまわないように。
余談:ホントに面白かったワープロの回
ちなみに、プロジェクトXが大好きな僕が特に好きな回がこれだ。エンジニアとかモノづくりが好きな人なら絶対に燃える「ワープロ作り」の話。
皆さんは知っているだろうか。昔、ワープロの日本語入力は、限られた者にしかできなかったことを。
なぜなら、漢字を入力するのが困難だったからだ。だって漢字って数が多いじゃん。
こんな無茶苦茶なキーボードを使ってたらしい。衝撃的である。
この回のプロジェクトXでは、普通の会社員が日本語を入力できるようにするという任務を背負ったエンジニア達が、必死に方法を模索する。
そして最後には、今では当たり前になった変換システムにたどり着くまでの一大ストーリーだ。
とか
とか、そういう異常な苦しみと戦いながら、ワープロを完成させようと必死になる。
非常に面白い回なので、是非見てみて欲しい。
エンジニア達の必死の戦いと、最終テストの感動に、心が震えることを保証する。